石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

祖父が凄い

 オモロな話を書きたい。

 

 人の子なので、祖父は勿論二人いる。母方と父方、私はどちらとも同等に濃く接してきた。彼ら双方、真逆のベクトルに物凄く『濃い』人々なので、個人情報侵害しない程度にお話ししてみたいと思う。

 

●母方祖父

 ひと言で表すと、『柔らかい方』の祖父であった。孫、特に私と姉に対して甘々の甘ちゃんで典型的なジジ馬鹿。祭りに連れて行ってはいくらでも遊ばせてくれたし、子供の舌に明らかに余る焼肉の店に連れて行ってくれたし、姉妹に上手いこと言いくるめられDSを買い与えそうになっていた(母と祖母にしばかれてこの話はなかったことになった)。

 この祖父であるが、端的に言うと本当に不死身だった。享年86歳(ん?)。

 

 聞いた逸話はたくさんある。

 ある働き盛りの若かりし時、仕事場で若干事故ってしまった祖父は頭から流血したという。しかし祖父はとても病院が嫌いなので、流すもの流したまま電車に乗って帰宅した。

 祖父の人相は的確に比喩すると『ヤ』である。ヤの顔つきの男が頭部から流血。面白いくらいに半径三メートル以内に全く人が寄りつかなかったそうだ。勿論帰ってから祖母にしこたま叱られちゃんと治療したらしいが。

 

 それから祖父はバイク乗りで、私の記憶の中でも祖父の部屋には沢山のバイクの写真、キャップなどのグッズが置いてあった。私が物心ついた時には、祖父はバイクに乗っていなかったが。

 どうもかなり深刻に事故(恐らく自爆か仲間内)を起こしたらしく、誇張なしに死にかけたようだ。しかしながらその死にかけからサラッと全快したので、今私が此処にいる訳である。ちなみにその祖父の奥さんである祖母も二輪で事故って腰の骨を粉砕骨折したらしいが、そこからさらに老いた今も杖なしでピンピンして歩いている。その話を聞いた時、私は初めて祖父の片方の目が義眼と知った(ただ単にピカソだと思っていた)(注:我が家では両目の大きさが違うことをピカソと言います)。

 つまり祖父は元バイク乗りでブイブイ言わしていた、ヤの顔つきの、義眼の、関西弁の、声と態度のデカいジジイであった。端的に言って怖過ぎる。この祖父との関わりが、タダのカワイイカワイイ孫としてであれて本当によかった。

 

 これらは母や祖母から聞いた話であり、他にも祖父が夜中に墓場散歩に行って柔らかい地面踏んで人骨をにゅっとさせて遊んでいた話なども聞いたが、割愛。

 今から話すのは私の記憶の中にある、つまり比較的最近のものである。

 

 祖父は酔っ払い、夜中に起き、庭で転んで腰を折ったことがあった。

 腰である。一歩間違えれば下半身の機能が危ない。勿論祖父は即入院となった。

 しかしながら祖父は病院嫌いである。家で養生させろとごねにごねた(加えて医者も側から見て割と嫌なオッサンだった)。

「でもねぇ○○さん(祖父)あなたね、歩けへんでしょそんなんで。どないして家帰って治すのん」

 私も確かその場にいた。

 祖父のベッド周りで医者と看護師複数名、母と祖母がいた。祖父は何ぞ理屈をこね回し退院させろと主張し、看護師らが呆れ果てた様子で否定していた、という次第である。その場の全員、母と祖母ももれなく全員祖父を説得したかった。腰が折れた男の老人の介護など祖母には重く、母だって我々姉妹の世話がありながら車で通うわけにもいかず、他の親戚は皆もっと住まいが遠かった。祖父に折れてもらうほかなかったのだ。骨折だけに。

 その後の祖父ときたら、とんでもなかった。

 ベッドの縁に手をかけなんと────立った。クララ(ジジイ)が立った。

 挙げ句の果てには縁から手を離した。勿論転倒した夜から日数はほぼ経っておらず、その腰の骨は思いっきり折れている。

「帰るッッッ……!!!(迫真)」

 医者と看護師らの唖然とした顔ったら。結果的にそのどえらい(強引なる)直立芸にて、祖父は自宅養生が叶ったのであった。

 

 まだある。祖父は赤血球の病(詳細は忘れた)、肺癌、舌癌をこの順で患った。前半二つは────気がついたら消えていたらしい(?)。舌癌は舌の一部を切除したら、転移もすることなくそのまま、治った────。

 舌癌は大したことなさげに見えるが、中々深刻である。なんといっても頸部のリンパが直近なのだ。転移の可能性がめちゃくちゃ高いことを再三説明されたようだが、一回の切除で終了した。

 肺癌に関しては自然の理としか言いようがない。祖父は16……18……?から毎日のように煙草を吸っていたのだ。酒豪に加えてヘビースモーカーだった。肺癌にならぬ方が不自然だ。にしても本数が凄かった。当時私は学校で、「煙草一本につき五分寿命が縮むんですよ!」との情報から、

『今この瞬間祖父が死んだと仮定して、煙草を吸わなかった世界線の祖父が一体何歳まで生きる事ができたのか』

 を母と姉と共に計算した。200歳をゆうに超えたのだった。

 

 

 此方の祖父だが、この記事を書いている約八ヶ月前に亡くなった。死因は結核……ってことになっていたのだろうか、結局は。それとも衰弱か。最強伝説の祖父、死際も何ぞ引き起こすのではないかと何年も前から予想していたが、まさしくその通りとなった。

 

 まず遡ること今より一年半前。亡くなる十ヶ月前にあたる。一人暮らしの私は「お爺ちゃんあと一週間持たんかもしれん、明日にでも帰ってきて」と母から要請があった。朝イチの電車に乗り、実家に帰って実家の至近に住む祖父母の家を訪ねた。

 祖父は弱りに弱っており、寝たきりでラジオを聞くしかできていなかった。食事もほぼ摂っていないというので、これは流石の祖父ももうダメだと私も、母も祖母も皆んな判断していた。どれだけ強くても、飯が食えねば人間はダメなのだ。祖父は「香の事応援してるで……」と手を握ってくれ、流石の私もしみじみとした。嗚呼もうこの、私が生まれた時から私を可愛がってくれた祖父とはもう会えないのだなぁと考えると寂しくなった。一人暮らしの家に帰ってしんみりしながら喪服の確認をしたり、いつでも荷物抱えて飛んで行けるように持ち物のリストなども作ったりした。

 少しした後、ほんの数日程度経った頃だ。母からまたまた連絡が来た。

「検査したらお爺ちゃん結核やって」

「あれまぁまぁ」

 結核とは、結核菌が引き起こす病である(説明の大放棄)。いやもう少し説明すると、まず昔と違い現代では普通に治るものとなったのが結核である。誰でも結核菌は持っているが発症はするものではなく、それこそ祖父の様に老いて弱った御老体などが発症する。すると何が起こるかと言うと、結核菌は生きているひとから絶えず『排菌』されるようになる。バイオテロリストと化してしまうのだ。つまり今やちゃんと治る病とは言え、シリアスな感染症で違いない為日本ではこの結核絶対治す事が義務付けられている。生きている限りは。

 つまりはこうだ。

 祖父は強制入院だ。

 祖父の大嫌いなもの。そう病院である。

 

「入院なんかするかぁ!!!」

 

 蘇る祖父の生気。

 荒れ狂う祖父の怒気。

 死にかけていたことなどすっぱり忘れ抵抗に抵抗を重ね、御年八十代後半にして拘束具の導入までされる始末。あまりに元気になりすぎではないか。「応援してるで……」の掠れ声は何処へ。看護師殿らに怒りのままに当たり散らす九州男児(老体)になってしまった。ボケたのか何なのか孫の顔は認識しておいてその孫に些細なことでガミガミがなり散らすこと。寝たきりの祖父に最期と思って手を握られた時の三千倍ほど私は泣いた。私の知らぬ祖父はめちゃめちゃめちゃ怖かった。

 しかし病院から出す訳にはいかないのだ。結核患者は結核を完全に治し排菌が治まるまで生きていなければいけないので、延命治療の停止もできない。そのまま元気に(?)病院で治療され続け、結果「もう一週間持たへんね」と言われてから十ヶ月祖父は生きた。

 しかも亡くなりぎわもまた、こう、凄かった。お医者が「今夜が峠です……最期に顔を見せてあげてください……」と親族に言うという下りが、計三回起こることがあろうか。

「今夜が山場ですね……」「今夜が本当に危ないです……」

 病院から電話が来る度、母と祖母は飛んで行って祖父の枕元で、

「お父さん……っ!! 私よ……っ分かる……っ!? 今までありがとうね……っ!!!」

 とおいおい泣き縋るのをやったのだ。何回やるねん。母自身も「何回やるねん」と言っていたので、何回やるねんの突っ込みは一応許されることになる。私的には祖父に手を握られ「応援してるで」が最期であったと思っている(怒鳴り散らかれたのがショック過ぎてアレを祖父だと思えなかったところが大半な)ので、大変だなーと見ていた。

 私もこの下り、やるのか……と思うと今から憂鬱で仕方がない。感謝はその都度親には伝えているつもりだし、改まっておいおい泣くのもとても心が疲れる。人間、死ぬ時ゃ死ぬし死者をもてなしたりするのは生者のエゴなので全員その時は瞬時に蒸発して死んでくれないだろうかと日々願っている。

 

 兎角、この様な風に祖父は逝った。

 その日の病院からの連絡はもう「危篤です」のひとつだけで、というか最早危篤ですの電話の時点で祖父は亡くなっていたと思われる。やはり人間が逝くのは明け方らしい。どうしてだろうね。

 情勢が情勢で大規模な通夜葬儀がなかったのは本当に助かった。祖父の息子二人、娘一人即ち我が母の三家族のみの超小規模な送別となった。吉本で育ったボケ倒し一家が三つである。おかげさまで不謹慎のオンパレード、大爆笑の収まらぬ葬式になり、結果斎場職員さんを笑ってはいけないの地獄に叩き落とし、我々遺族は数年に一度の非常に豪華な精進落としを楽しみ、おそらく故祖父はめちゃくちゃキレた(火葬直前に遺体の口角が下がっていたので)。

 祖父有難う、安らかに。

 貰った骨董品は更に年数経って困った時に売って生活の足しにするよ。

 

 

 

●父方祖父

 ひと言で表すと、『固い方』の祖父であった。先の母方祖父と比較すると、何もかも真逆であると言わざるを得ない。私の両親の結婚式などで顔を合わせたであろう二人の祖父は、一体どういう感じだったのか、非常に興味がある。

 軽く調べるだけで特定されてしまうくらい著名な人であるようだ。政治批判が強めで、孫などへの年賀状や手紙の返信にもその様な内容のコメントをしたりする。比較的よくみる祖父の感情は『怒り』で、その殆どが祖母に対してだ。

「なんで××郎(祖父の兄弟)が住所なしに手紙を僕に送ってくるんや!?」

「そら××郎さんかてお年やし忘れはっただけでしょう!」

「××郎が僕の名前を間違える訳ないんや!」

「点一個でしょう何をそんな心配してはるの!」

「やから××郎は今どこにおるんや!?」

「そんなん私は知りませんよ!」

 決して仲悪い夫婦ではない。コントでもない。祖母がコードを引っ掛けラジオを落としただけで「もォ────ッ!!!!!」とキレ、同じく祖母が接着剤を殺虫剤と言い間違えただけで「サッチュウザイィイ!!!?!?」とブチキレていた祖父だが、コントでも険悪でもない。

 言い方と順番を誤った気もしないでもないが、こっちの祖父は本当に厳格で静かで、基本的に笑わない。自我が強く知性に溢れている、如何にも『教授』の肩書きが似合う格好いい老人だ。しかし一人称は僕である。頭のいい大人の男性の僕一人称は大好きなオタク孫であった。

 

 こちらの祖父の面白いところは、私に対しては比較的『お爺ちゃん』をするところである。

 祖父宅の隣に住んでいた時期。母が自作の大学芋のお裾分けに行った時(普段大抵出るのは祖母だが)偶然祖父が出ると、祖父は顰めっ面で黙って受け取るだけである。そこで私が同じものを後日持ってゆき、同じく祖父が出た時。

「これな。さっきデパート行った時売ってるの見つけて買おうとしたんや。やめといて正解やな。すごくこれ美味しいから。有難う」

 いやめっちゃ喋るし笑うやん……。その有難うをカーチャンにも言うたってくれ……とも思うが、嫁と孫じゃ見る目が違うか……。しかし大学芋を孫に語る元大学教授という図は思い返せば正直めちゃくちゃ面白かった。

 

 姉のことは今でもどうも、祖父は孫というより「生徒」「若人」として見ている傾向にある。姉と対峙すると、祖父は高次で政治的な説教を垂れる。今でこそすっかり声は掠れてしまっているが、教授時代は広い講義室でもマイク要らずのよく通る声であったという。教え子もたくさんおられる様で、しばしば何らかの何かで届いたのか、胡蝶蘭が祖父宅にあった。祖母が大事に育てたが、祖父は大変邪魔くさそうにしていた。

 しかしながら私の事はなんとびっくり「孫」らしい。難しい話をされた記憶がない。ちょこまか動く私を顰めっ面で目で追い、私と目が合うとそそくさと目を逸らすのだ。いや孫というより……「珍妙な生物」……? 卑屈なことを言うと、私は姉と違って難しい事を語れる知性が見えなかったのだろう。実際そうなので買い被られるより私としては断然有難い。

 にしても私は中々、その思慮の足りなさに相応しく祖父の地雷の上をタップダンスしたものだ。祖父は沢山の人々にとっての「先生」であるが、本当に教え子にだけしか己を先生と呼ばれるのを許さない。新聞取材をされた時も記者に先生と呼ばれ、

「僕は君の先生ではない」

 ときっぱり断ったそうだ。

 そこでやらかすのがこの私なのであったが、その話を知らないまま祖父をメールにて『先生』と呼んだことがあった。他意はなく、普通に……ウケ狙いでもなく何気なく書いたが、母を大いに慌てさせた。しかしながら返ってきたものの件名はこうだ。

 

先生はこう思いますよ。』

 

 母にこの件名を見せた。

「……。」

「カーチャンこれもしかして、祖父、満更でもない?」

「ま……満更でも……なんでや……地雷…の筈……」

 母の混乱は深まるばかりだった。

 

 この祖父が私の名付け親であり、実に深く、可愛らしい名前をつけてくれた。あまりに可愛らし過ぎて赤の他人から「らしくない」と言われる始末になっているのを祖父はまだ知らない。知らなくていいだろう。天真爛漫でお花畑な頃から私を知っているため、恐らく今も並行してその人格のままであると思っている可能性が高い。

 祖父が書いていたブログを通して名の由来を教えてくれた事があったが、今探してみたところブログサービスが終了しており、私の名前の由来を回答した記事は虚無へと消し飛んでいた。由来自体はしっかりと覚えているが、政治批判や祖父の専門分野など固くてつまらない話に混じった小学生向けの優しい口調のあの記事は、中々特別なものだった。購読していた研究者らは、当時さぞ驚いた事だろうと思う。何とは言わぬがza○、何勝手に貴重な思い出を消してくれているんだろう。腹立つな。

 

 家族四人揃ってで、一番最近祖父母の家を訪ねた時の話だ。

 エアコンが調子悪い、様子を見てくれと祖父は父(息子)に頼みごとをした。機械が得意な父なので、このやり取りはほぼ毎回起こる。型番を確認しネット検索をあれやこれやしていた父は、めんどくさそうな顔をして室外機を見てくると部屋を出て行った。

 いや、依頼者に進捗説明くらいしようぜ父。父の背後からパソコンを見ていた私は親切心に祖父に伝達をした。因みにこちらの祖父には全文敬語である。

「型番古過ぎてもうサポートがなさげだそうですよ。室外機の問題なら俺がやれるって父さん言うてましたけど、まぁあかんやろなって……えっ何でしょうか」

「T芝より貴女の方が詳しいんとちゃうのんか」

 嬉しそうな顔で何言ってんだこの人。

 思わず心中でめっちゃ突っ込んでしまった。返答のクソキモオタ構文も意に介さずに不敵に笑って「ふふ」と返す祖父。怖っ……現役限界大学生、万が一にでも弊学怖い教授にキモオタ構文返事してしまうことを思うと、心臓ドキドキしてくる。加えてこの祖父、そう、孫に対する二人称が『貴女』なのだ。あなたではない、貴方でもない、貴女。お分かりだろうか。あまりに‘きゃら’が立っている。

 なお、最終的にはエアコンは買い替えになったようだった。

 

 幼少期私は真に自我もなきお花畑であり、茹で卵を丸呑みするなどドアホなことをこの祖父の前で無邪気にかますドアホであった。祖父の身分や性格など色々きちっと知った今ではあり得ない。過去に戻れるならこのホンワカパッパな自分をどつき回しに行きたい。しかし母曰く、どうやらこの時の祖父は茹で卵孫娘を見てあり得ないほど絶笑したそうだ。『抱腹絶倒』。

「あんな笑うお爺さんやなんて知らなんだ……」

 と母に言わしめた孫は他でもない私である。尚、孫は私と姉のみだ。

 

 再三言ってしまうが、私は本当にドアホである。

 祖父から「書斎から出てきた。然るべき時にでも自由に使いなさい」と、黄ばんだノートをもらった事がある。黄ばんで古びて乾燥して、しかし何も書き込みがされぬまま放置されたらしい、「古い紙です」感の全開な素敵な大学ノート。その表紙には青の万年筆で知らぬ単語が書かれており、読みは分かったが何なのかは知らなかった。私の様な人種に白紙のノートを渡すと何をするかというと、落書き帳にするのだ。勿論本来捨てられていたところのゴミ同然なただの白ノートを譲り受けたのでその使い方で正解である。しかしそこそこ成長してからそんな黒歴史落書き帳の、表紙の万年筆の文字を読んだ時、そこはかとなく冷汗が出たのだ。

 『特別研究修士論文』。

 白紙のノートというか、博士のノートでしたって? わはは。

 

 私が生物学系に進んだため、しかも叔父と同じ大学に合格したため祖父はそこそこ喜んだらしい。合格報告のほか、そちらの面で援助もして頂いた事などもあり入学前に祖母と二人で会いに行った。祖父はその時ちょっと入院していた。

「ここがお爺さんのお部屋……あら、いやらへんわ。おトイレかしらね」

「ああ、ほな此処で待ちm」

 言っていると背後から祖父が出現した。祖母の言う通り手洗いに行っていた様だった。

 点滴を連れて歩く祖父は随分小さい。私が背丈的に小さかった頃の認識が未だ大きいのと、祖父の腰がひどく曲がっていたのと、基本的に祖父は立ち姿より座っているところばかり見ていたこともある。

「ア、アッお爺さんどうもご無沙汰して……して、あの、ドアに手ェついて背伸びしはってあのお爺さん何、まず座られた方が」

「貴女の方が大きいね。」

「そら成長期終了直後の若人であります故!?」

「ふふ。」

 キモオタ返答やめような。

 談話室で生物学に関する知識を少し授けてくださったが、ダァーホ(ドアホ)はすっかり忘れてしまった。この時祖父が震える手で書いてくれたくしゃくしゃのメモ書きは確か残っているので、探して見つければ思い出すかもしれない。明日以降引き出しをひっくり返してみよう。

 上の孫はド賢者なのに対して、下は愛嬌あるだけの本当にアホで申し訳ないな。

「お爺ちゃん、明後日で退院なのよ」

「おおそれはよかったです」

「**子(祖母)、ご馳走はあるか」

「ありますよ。作りますとも」

「(ニコ…」

 えっ、祖父母仲良しじゃん……何ご馳走って……何その穏やかな笑み……!?

 に、孫がなった瞬間であった。尊かった(感想)。

 

 そんな祖父だが、どうやらまだ別のサービスを利用してブログを続けているらしい。最近のものを見てみると、終活に関する所見と深刻にボケてきたと嘆くものが見られた。保険証を捨てかけたり忘れ物をするなど、確かにあの祖父が……と思うところがあるが、ボケの自覚がある分かなり素晴らしいところがある。この頭のいい祖父が老いるとどうなってしまうのだろうと思っていたが、その豊かな知性は健在であり、揺らぐ気配が全くないようだ。

 新しい方のブログサービスで祖父が我々孫に言及していないか調べると、「子と孫へ告ぐ」というものがあった。

 私は嬉々として開いてみた。

 

『z民党に投票してはならないよ』

 

 静かに微笑み、ブラウザバック。

 

  石澄香