問. 前より酷い精神崩壊とかあるん!?
答. ある。(真顔)
※この記事は何もかも全然解決しないまま、新鮮なぐちゃぐちゃ感情を残しておきたいがために書いたものなので、ぶつ切り胸糞で終了します。
◆◆◆
夕方六時くらいだった。
実験室で顕微鏡を覗いては、俯き、窓の外を見、はたと我に返って顕微鏡を覗く。
吐き気が半端じゃなかった。大抵の吐き気は我慢する方だが、流石にトイレに行こうかと三回くらい考えた。が、棟内は結構静かであり、人も少なく、そんな中女子トイレからゲロボイスを響かせるのも恥ずかしい。それにゲロボイスの源が私であると、同実験室内で同じ作業をしている爆速でバレてしまう。実験室の真ん前がトイレだし、情勢のせいで実験室の扉は全開であるし。
それにカフェイン錠を六錠ほどイッキしたのは大体その時点で三、四時間前だったので、そろそろカフェインが切れてもおかしくなかった。
ぐなん、ぐなん、とゆっくり上半身を椅子に座ったままうねらせながら、ずっと考え事をしていたら。
どでかい亀裂がいきなり入った。
「(……あ。ちょ……)」
……っと、これはアカンと直感した。
亀裂、で済んでいた。しかしそのぱっくり開いた亀裂から柔らかく脆くそよ風で傷付く中身が覗いている。しかも今にも外に漏れてきそうだ。流石によろしくない。同じ空間にまだ、同期が三人もおるんやぞ!?
今日こそは絶対絶対長めに作業する、と心に決めていたが、真剣に『再起不能』の文字が頭をよぎり、大慌てで亀裂を引っ掴んで強引に閉じて、せかせか身支度をして家に帰った。
そして余計なことを考えないうちに眠剤を放り込んでさっさと寝た。情動がトチ狂っていた。此間まで苛立ちが頂点だったのに、涙腺の締まりが最悪だった。人生で(幼児期を除き)泣いたのは片手で数えるくらいのこの俺の!? 涙腺が!!?
「……。」
まあ疲れてるのだろう、と心の中で断言した。いや明らかに疲労困憊である。ついこの間まではヒトから自分への心配親切からコンビニに置かれるクリスマスの云々まで何もかも、世界の全てにキレ散らかす怖い人になっていたので、いよいよ情動が壊れてきたのだと思った。にしてもここまでの情動の狂いは流石に作業に支障を来すと判断したため、時間がないと言い訳せずに近いうちに精神科に行こうと決めた。普通に医者行くの面倒だし、現在のド多忙とメンタル失調と不健康さは年末で終わるのだ、年末までひたすら手を動かして耐えればヨシとしていた。実際、夏にあった別の修羅場も終わった瞬間コロッと直ったし? と。
……しかしそんな呑気なことを言ってられないほどヤバいところまで来ているとは、今回気付けなかった。
次の日、眠剤が切れて早朝に起きてから日の出まで布団でずーーーっと泣いて、日が出て、授業もあるのでと起きて歯磨きなりしようかと何やかんやしているうちに気が付いたらエラいことになっていた。
うー、あー、とアザラシみたいな声を常に口から漏らしていないと、指数関数的に跳ね上がる焦燥感と不安感に耐えていられない。否、うーあー言っていてもほぼ意味などなく、気休めになっているのかいないのか分からない始末。
おかしい。何故こんなことになっている?
これまで自らが『精神的苦痛』としていたようなアレらなど、爪楊枝の先でつつかれた痛み程度のものでしかなかったと思うほどしんどかった。いつから何がきっかけでこんな状態に陥ったかもう覚えていない。
いや確かにカフェインが一因かもしれない。というか確実に寝起きにかましたカフェインだと思う。しかしそれにしてもカフェインだけが原因では決してないだろう。カフェインを五?六?七?飲んで、椅子に座った状態で手足末端の筋肉硬直(座った状態で手足を斜め下前に突き出し指をやや丸めた体勢でガチガチになっている状態。いい経験だった)をモロに食らい、『やや、もしやカフェインて蓄積ダメージ?』と思い至りながら、同時に襲い来るヤバい吐き気に激しく後悔していただけだった筈だ。恐らく同じ商品名のカフェイン錠を八十キメて、地獄を見て後遺症なく生きて帰って来た人のはてブロ記事を読んだりした上で、ODはやっていた。死にたくはないし過度に苦しみたくはないので。適度な苦痛と後悔と自罰と経験が欲しかっただけで。どうやら蓄積するらしいと思い至ったため、この時『よしカフェインODはやめよう』と決めたのだったが時すでにお寿司。
兎角、カフェインはヤり過ぎたが『でもまあ効力時間的に昼前には切れるはずだから昼飯は買って食えるかな~』と、寧ろ楽観的だった筈。今のこの激しい、“抑鬱”では表現しがたい、それを優に超えるこの気分は全然別の要因のはず、だと、思ったが。
平日朝八時。午前の予定も数時間先。本日はライトなタスクが二つだけ。眠剤でよく寝たよく寝たよく寝た。だのになぜ、なぜ『建物内で追いかけられて追い詰められてサッシもガラスもない窓から突き落とされそうになって落下の恐怖から必死に縁を掴んで逃れようとしているのに後ろから怒号と共にがんがんと大勢の足に背中を蹴られている』ような気分になって死にかけているのだろう?
「待って」「一瞬でいいから待って」
言っても止まらなかった。
勿論こんなのはただの比喩で、指先が壊れそうなほどに握っているものは窓枠なんかじゃなくよれたシーツで、もう片方の手の爪が引っかかっているのはフローリングの溝。日も登り輝かしい晴天の元、落ちる先など何処にもない部屋で、私さんは寝床の上で怪我もしていないのに奇声とともに緩慢に転げ回る何かになっていた。
正直、純粋に感心した。割とそれどころではなかったがやっぱり元来知りたい人間なので、『人間が駄目になるとこうなっちゃうんだ~』と俯瞰して、後学として記憶しておこうと思った。昔、聡明な自我を持ったキャラクターの心が外的要因によって大破する描写を盛り込んだ二次創作小説をノリノリで書いたことがある。出来には大いに自信があり、読んだ人からも大変多くのお褒めの言葉を頂いた。正直に言う。全然あんなんじゃない。描写が甘い恥ずかしい。しかしあんまりリアルだとトラウマ抉られる人が出てくる可能性もあるので、あのままにしておこうと思う。
仮にこれが身体的外傷だったなら、己の身に割と頓着しない私ですらもやや迷った末に#7119をすっ飛ばして119をしていた。逆にどうして神経衰弱者用の救急がないのか疑問に思った。
室内はいつも通り。掃除されない埃、落ちっぱなしの菓子クズ、空のカップ麺の器、空のカフェインの箱。エトセトラエトセトラ。社会不適合者の部屋みてえだなあと何度も思ったが、社会不適合者の部屋っぽさ具合は日が経つとともに加速していた。床に落ちていた己の髪の毛を凝視して気を紛らわそうとしても、ダメだった。スマホで柴犬の動画でも見ようとした。画面の情報が何も頭に入って来なかった。スマホ以前に部屋の中のものを普段通りに認識できない。
脳が狂っていた。何にも見ていないし聞いていないし言われていないしされていないのに、不安と焦燥と恐怖の感情を無駄に大量生産し、外部からの情報を徹底的に遮断していた。
慢性的に私の中にあって、お互い何もせずに共生してきたつもりだった重たい生き物が突然叛逆を始めたようだった。例えばかりで申し訳ない、だが、あの時の感覚は感情は何もかも何もかも私にとっては初めてだったのだ。
別に希死念慮自殺願望はなく、寧ろ「死にたくない」が募る。
「死にたくないんですが!?」
「えっ死ななきゃいけないんですか!?」
「なんで私が死ななきゃいけないんですか!? 本当に今この瞬間が私の終了地点で違いないんですか!?」
夢の中で何かに追われて死んだ事はお有りだろうか。私も最近だと、
「自分以外人類全員宇宙人ぽい者どもに連れてかれて食われたが私だけ彼らの施設内で逃げ回り生き延び、しかし高さ五十メートル程の高さのカーテン付き棚に隠れていたら見つかりかけて裸足で床に落ち走り、ドアを開けた瞬間綺麗な人間女性の姿をした宇宙人と鉢合わせ『もうダメだ』と腰が抜けたが、その宇宙人は黙って真顔で謎のスープを私に差し出してくるだけであった」
というクソカオスな夢を見た事があり、怖かった。何の話? 因みにスープは必死で断ったらなんだか悲しそうな顔をされた。
そう、そういう夢、起きた瞬間『嗚呼~夢でよかった』と胸を撫で下ろすだろう。
あれが現実だとしたら。
心がべきべきべき音を立ててへしゃげていくのを、私が想定していた“限界”をどんどん更新して壊れていく様を感じている時、
『これは夢ではなく現実だ』
と思い知った瞬間が、一番絶望的だった。
意識せねば呼吸すらできない、今いる状況は非常事態だ、明らかに。自分一人ではどうにもできない。
助けを求めようとした。しかしいつもの先生がいる精神科は、どれだけ早くともちょうど二十四時間後に始まる。ならば今日いる別の医師に縋ろうかとも思えば、上体すら起こせない。仰向け⇔俯せを変えるのすら危ういほど体が動かない。こんなので起きて着替えて出かけられるわけがない。まずスマホで電話をかけて人間と話すとかいうもの、前の精神科チャレンジ記事でも書いたが、元っからそんなハードルが高いもん今例えれば東京タワーであった。
恐らく自分は今、誰かと会話をすべきだ。パニック状態を脱しないと何もかもどうにもならない。そう考えた。
学内唯一の友人は? お互い家の場所も知っている。しかし彼女も大概メンタル瓦解していた上、まず彼女はこの時間の朝起きてはいない。それから他に友人はいない。
県内の叔父叔母は? そこそこ遠い。連絡手段であるメールもタイムラグがあろうし、今の時間仕事を開始している可能性も高く、最近は冬支度に向け多忙であると聞いた。
親は?
「……」
親はダメだ。
母親はダメだ。
あれは私を助けてはくれない。母は私を助けられない。母は私を無意識的に崖から突き落としかねない。母は私を助けることができず、私を殺しかねない。
思った。
思った。
思ってしまった。
だれもみかたがいない。
心が死ぬのを待つか。と思った。その方が早かった。身体的に死ぬ元気も勇気もなかったし痛いのはやりたくなかった。一番求めていたのは、『一発で楽に死ねる何か道具』だった。手元にあったら、感涙しながら自害していた。
ギリギリギリギリ、本当にギリギリで連れという人間の存在を思い出した。
あいつなら、あるいはあいつなら大丈夫かもしれない。むしろあれしかいない。
ちょっと迷って、もし既読がつかなかった時のことを思って何でもない言葉から始めて、するとすぐ既読がついて、電話していいと言ってくれたので連れと話をした。
パニックがヤバい。心が大破している自覚がある。兎角人と話した方がいいと思ったから貴様に電話してみた。
そういう事をテンパりながら言ったところで連れは「おーおーおー」と頷くだけだった。一番欲しい反応だった。
「本当ハッキリ言うんだけどさ。俺は君のこと具体的にどうする事もできないんだよな」
連れは言った。
「で君は今俺に電話かけてきたのは、なんか気を紛らわすためだろ?」
「そうね……手元に都合のいい道具さえあったらすぐさま死んでいたわよ」
「お馬鹿~~~」
連れは淡白に無関係な話をし始めた。支部にある●ョジョと●滅のクロスオーバー作品がめちゃくちゃウケるんだという話など。途中で流れで私が愚痴るとふんふんと黙って聞いてくれた。連れはネガティブなことは何も言わなかった。『その同期サイテーだな! ぶっ殺しに行ってやるぜ!』方面のネガティブすらなかった。
「あーあー。いるよなーそういう奴」
これが本当に嬉しかった。一緒に怒ってほしい訳でも、泣いてほしい訳でも、憐れみも、共感も、対策提案も何もいらなかった。ただ、
「お前それめっちゃ偉いよ」
は言ってくれた。数少ない、その瞬間の私が物凄く欲しかったものだった。あの時LINEを飛ばして五秒で既読をつけてくれていなければ、電話に出てくれなければどうなっていただろうと考えると、心底ゾッとする。本当に本当に助かった。つい数日前まで世界の全てが気に入らなくて怒っていたが、連れと出会わせてくれたこの世界の運命に心の底から感謝した。
終日空いていたとはいえ、六時間も拘束してすまん連れ。
連れと話して取り敢えずはパニックが治まったので、次の日の朝早くに例の医者おじさんの精神科の予約をした。行きのバスの中で何を言おうか整理していたら、バスの中でまた泣いた。加えて診察室に入って三秒でもっぺん泣いた。おじさん引いていた。
前処方された眠剤がめっちゃいい感じに効いた事をちゃんと伝えたかったのだが、残念ながら「もうやりたくなくなっちゃったぁ…」がお医者への第一声だった。
「何をぉ」
「だ……だい、理系大学生を……?」
「理系大学生……」
恐らくまともに話せないと考えたため事前にここ最近の己の状態を文字に起こしており、それを読んでもらおうとおじさんにスマホを差し出した。
「面倒臭い~口で言ってもらった方が早いよ~」
「ええ……」
容赦のねえおじさんだった。スマホは見てもらえたがほぼ流し見で、結局私が崩壊言語で途切れ途切れに口頭説明する羽目になった。頑張って書いたのに読んでもらえなくて悔しかったので、ここにコピペしておく。ここは読まなくてヨシ。
10/30~ キツい課題開始(予告あっての奴)に伴い緊張感が増すが、寧ろこの頃の健康状態はかなり良い。スケジュール立てして徹夜をしばしばするようになる。
11/20~ Twitterが多弁。自分の無能さへの辛さが凄い出てくる。まだ人の心配ができている。
11/25辺り 起きられない…という日が出てくるが授業があると起きられる。自分の予定が半分弱ほどできなくなる。カフェインで手が震える事が増える。
11/28辺り 徹夜がかなりつらめになってくる。自覚するほどノイローゼ状態になってくる。課題への危機感が増す。
11/30辺り 自分の機嫌の取り方が分からなくなる(普段も分からんが特に)。情動と情緒に異常。まだ楽しめるものはあった。
12/2~ 「何にもできない日」が出てくる。朝(早朝)起きられず、そのまま午前を丸ごと潰す事。徹夜が苦痛だが可か不可かでは可。肉などで吐き気がする。階段でよく落ちかける。娯楽の大半が見られなくなり危機感は感じるがまだ精神科の出番ではないとする。
12/8 早朝にまた暖房なし実験室の机に突っ伏し仮眠を取っていたら漠然と凍死の危機を感じて慌てて帰る。風呂に入って温まって整体(?)に行く。
12/9~ 苛立ちが異常。何に対しても腹が立ち、感情の狂いを自覚する。カフェインのODを始める(6錠/回~)。稀に眠剤の残りを使うように
12/14 情動の狂いが類を見なかったレベルになる。苛立ちはない。年明け前まで耐えずにいっぺん精神科行った方がいいかもと思う。歩行がおかしい。日が暗いのとカフェインのせいと割り切ったが、慌てて帰って眠剤を入れてさっさと眠る。
12/15(昨日) 5時間で眠剤が切れ夜中に目が覚め布団の中で少し泣く。泣いたら少しスッキリしたが日が登ると凄まじい焦燥と恐怖で物理的にも精神的にも動けなくなり、パニックになる。過去最高レベルの精神的苦痛を感じる(喩えるなら仮にこれが外傷だったら若干迷った末に一発119していたレベル)。布団の上で狂う以外に何かやれる事はないかかなり時間かけて考え、最終的に遠方の連れに電話かけて会話してひとまず鎮静する。
切った後すぐ精神科予約入れた
12/15夕方 パニックは治まったが動悸凄い(カフェインは切れたはず)。部屋の中を立ち歩く事すら息切れして疲れる。近い未来への不安は消えない。結局今日何もできなかった事への劣等感も凄い。出来る事つったら寝床の中で一文にもならん文章を書く事
「こ……心が……心をヤシの実と例えるじゃないですか」
「ヤシの実……?」
「たた例えですよ?」
あの日の朝脳がぶっ壊れてパニックになった瞬間について、我ながら一番的確な比喩が浮かんでいたので医者に披露した。
「で油圧プレス機ってあるじゃないですか。何でも潰す奴。色んなもん潰すだけの動画がめっちゃ●ouTubeにあがってるような」
「そ、そう……?」
今から考えたら中々いらんこと言うた。私は結構見るんです、プレス機で色々ぶっ潰す動画とか、でかいシュレッダーに色んなもんを放り込む動画とか。
医者おじさんによる前回の『会話できてるつもりだったんだね』を思い出した。多分この時の自分が『会話できてない』なのだろうなと俯瞰した。
「で……心が……プレス機でゆっくりゆっくり……めきめき音立てて潰されていくような……ヤバくて……こう……ゆっくりめきめきばきばき……」
「心が……?」
「心が……」
「心……」
「あとカフェインODをね……」
「ぉ……」
おじさん、かつてないほど深刻な顔をしていた。上記の変な訴えをしている間は、ずっと私はずびずび泣いていた。途中で『ティッシュ取って……』と友達のノリでお医者にティッシュパシリをさせた。ゴミ箱パシリはお医者の方からやってくれた。
「で今日もこれから…午後にあるし……実験……」
「いやいや休むしかないでしょ……コマ数の1/3休まなきゃ落単じゃないでしょ?」
「でもチーム作業だし色々あって一回でアウトに近いんです……なのでもう今日昼前までに落とすかどうか決めるくらいでないとって」
「貴女ね。そんな状態で大事な選択やっちゃ駄目。兎角休みんさい。今の貴女は無理」
「分かるぅ……」
オタク返答すな。
「で、あのね。ぽわーてする注射打ってく? んでちょっと寝ていきんさい」
「わ~便利~」
べそべそに泣いて泣いてしている若人をまんま帰らせる訳にもいかなかったんだろうし、確かにあのまま『カエレ!』されていたらちょっと途方に暮れていたかも。ちなみに注射代が不安になったが、領収書を見ると保険適用でゼロに等しかった。すごい。
「お尻に打つけどいい?」
「いやなんで???」
「いや腕でもいいけど筋注だからさ」
「筋注か~~~」
※筋肉注射。ふぁんたじっくな小説を書く上で筋注は知っていた。
「でどうする?」
「(滅多にないタイミングやし痛みの経験はしておくに越した事はないので)腕がいいです」
「そう……」
何とも言えぬ憐れみの目で見られた。
が、別の部屋で打たれる直前、打つ担当の看護師さんに、
「でもね~予防接種の四倍あるのよ~」
と極太のシリンジを見せられ恐れをなした私は震えながら「シリデイイッス」と言うしかなかった。おSiriにやられた。
で。そこそこ適度に頭がぽあ~して動悸がマシになったので、もう一度お医者に会いに行った。
「まずカフェイン完全にやめなさい」
「そう……」
「で汗をかく」
「汗」
「難しいだろうけど汗をかく。運動なんかやれてないよね? 汗かかなきゃ」
「そうなんですよね……」
リングフィットをやるかな……と思った。完全にサボり、ヨガマットが埃まみれだった。
「で休む。とにかく休む。大学行かない。実験行かない」
そうばっさり言われて思わずエヘヘヘ……と笑うと、おじさん「何」と怪訝な顔をした。
「行かなくていいって……同期と会わんでええって……お医者にお墨付きもろたから嬉しい……」
「何? そゆの以前に同期が嫌なの?」
「同期が……嫌いで……」
一年時から組まされている班の同期があまりに合わない。日本語がボロカスで伝達能力が皆無に等しい者や、話を全く聞かずにこっちに丸投げしたりしゃしゃり出てきたりする者など。無論彼らの方が私よりアタマガイイし、性格が合わないだけだが私の激情が一々私の行動に支障を来してしまうのだ。もはや顔を思い浮かべるだけで辟易するほどだったし、来年以降も組まされることを考えるとまた泣きたくなった。
と、言う旨をおじさんに言った。
「ああ~なんだ~」
するとおじさんはパッと意を得た顔をした。
「もうそんなんだったら分かってるじゃない。選択肢ひとつしかないじゃない」
「……」
ば、と布を剥ぎ取られた気分だった。見たくないものを隠していた布だったので、剥ぎ取られたくない布だった。壁を通過しiPodの爆音イヤホンを通過し聞こえてくる姉の泣き声が脳裏によぎった。
「……その……選択肢を認めるのに……数年かかった人みたいに……なりたくない……」
「なりたくないでしょ? ならそうならないように、何年もかかって苦しむ前にさっさと認めるしかないの。それだけ。それはいつか貴女が必ずやんなきゃ」
「……」
「パニクっちゃった時用に抗不安薬は出しとくけど、絶っっっっっっ対飲み過ぎはダメよ」
「めっちゃ念押すやん……」
診察室を出て薬剤科へ。
「ワイパックス出てますね」
「ワイパックスかよ」
※どっかのイラスト実録にぽろっと収録しているが、眠剤として処方してもらっていた数ヶ月前に三錠で効かなくなってきて『ワイパックスやめよう』と言われたところだった。
ぽてぽてと病院からバス停までの道のりを歩きながら、色々なことを考えた。初めて運よく、一番近くのバス停に十分以内に帰りのバスが来るらしかった。バス停に突っ立ち、『選択肢一つしかないじゃない』についてずっと考えていた。何を意図するのか、嫌でも分かっていた。別に目から鱗っていう訳でもなかったし、ずっとずっと前から自分でも視認しつつ見ないふりをしていたものだった。
……。
◆◆◆
最初の私の夢は、保育園の時だった。ケーキがたくさん食べたかったので、ケーキ屋さんになりたかった。イートインのスペースがある、ショートケーキやチョコケーキなど私が好きなケーキばかり並べたケーキ屋さんになるのが夢だった。
次は幼稚園の先生だった。ケーキ食べたいからとケーキ屋になるのはアホだと気がつき、子供の相手をして遊べる幼稚園の先生になればきっと楽しいと思った。
そのあとは科学者だった。幼稚園の先生はよく考えたら別に子供と遊ぶ事が仕事というわけではないし、白衣を着て「えんさん」や「すいさんかナトリウム」を試験管で混ぜたりしてBOMする方がよっぽどカッコいいと、科学者になろうとした(これは小学校の文集にまんま書いてあった事だが、ちゃんと考えたらコイツら混ぜても塩水しかできん)。
職業体験で病院に行った時、薬剤師になろうと変えた。院内薬局で薬剤師さんらの話を聞いた時だ。科学者ってよく考えてみれば曖昧過ぎであるし、何の分野なのか分からない。それから博士課程ってかなり狭き門らしいから私には難しい可能性がある、ならば薬学部で薬剤師国家試験を受けて年収も良い薬剤師だと、それに薬学科からそのまま研究ルートに行くのもアリだと、コレが最高だと決めた。
この辺りから現実を見始めている。
高校の物理/生物選択で、薬学部、もしくはそうでなくとも多くの理系学部へ行くには生物より物理が有用であると聞いて薬学の志が大いに揺らいだ。生物の先生が好きだったし、生物の方が勉強していて楽しかったし、圧倒的に生物が得意で物理が苦手だった。薬学行きたいのに物理はやりたくない、生物勉強したいとした時、「石澄さん寧ろ生物学の方行くとかどう?」と担任に言われ目から鱗、生物学方向へ転向した。具体的になりたい職は消えたが、やりたいこと学びたいことを生物学の範囲内で探そうと決めた。
「……」
大学に入って教職課程を取った。自分が向いているかどうか分からないが、もし向いていたら生物教師になろうと思った。教育学の勉強は楽しかった。が、『精神科チャレンジ』の記事の一件にて、鬱になって教職課程を降りた。
バイトもしていない。同人活動に邪魔なので、サークルも所属していない。取っている科目も全部ではない。特殊なコースプログラムにも入っていない。資格も取らない。GPAも大してない。教授のツテもない。友人のツテもない。
悔しくて悲しくて初めて一人で泣いたのは、中学三年の時だった。家で留守番して宿題をしている最中に突然、
「嗚呼、私は、姉と違って凡人なんだ」
と自覚した瞬間。
都道府県単位でなされる小学生向け学力テストで、姉は全て満点だった。進○ゼミの『最高ランク/最難関問題集』のあまりの簡単さに、姉は嘆いていた。姉は偏差値75の高校に受かっていった。姉の模試偏差値は50代がほぼ見当たらず、英語などは80を越え京阪神が余裕と言われていた。そんな姉が誇らしかった。例え中学で保健室常連になっていても、高校に通えなくなっていたりしていても、姉は私の憧れだった。私はその姉の妹であったから、姉ほどではなくともその若干下程度の頭の良さだと思っていた。姉よりたくさん勉強すれば姉と同じ高校に行けると本気で思ったし、大学だって阪大くらいは行けると思った。
でも私は凡人だった。そこら辺にいくらでもいる、何ら特別なものなど何も持っていない有象無象の一人だった。
次に泣いたのは高三の時、「私の思春期は一体何だったんだ」と思い至ってしまった瞬間。ここのブログで一番最初に書いた、『偶手箱』の記事のあの時。
家に帰れば母に姉の容態を聞き、稀に姉の発狂を聞き、母の呪詛を聞き────としていた時期の頃の記憶。あんな事、される必要なかった筈だ、私はあんな家族の姿を見る必要なんてなかった筈だと思った時。そんな修羅場状態がすっかり収まり何もなかったかのように平和になった家族内に抱く違和感。崇拝に近く信用していた人間像が瓦解していき、混乱に陥ったあの瞬間。
そして今。
どうして大学生をやっているのか、分からなくなった時。やっているのか……『やる事ができないのか』。
向いていないことくらいかなり最初の方から察していた。だが私はその時の私にとって最善な、可能な、最適な選択をしてきた。今もそう思っている。あの時点で他の道を歩いていく自分は、何がどうなっていたとして発生する訳がなかったと思っている。実際今、私はここにいる。
向いていないながら上は目指さず、どうにかついていきながらやっていこうと考えていた。今を楽しいと考えながらやっていこうと、見える楽しいところを重視して、選んだ道が正しかったと思えるように自分を変えていこうとした。しかしこうまでもできないとは、思わなかったし思いたくなかった。
ある日、院生の人に聞いた。『院での研究は楽しいですか』。彼は答えた。
「楽しいとか最早ないね。ほぼ作業」
そうか、と思った。正直に言ってくれて嬉しかった。お子様の考える研究は、現実から甚だしく乖離している。
同様にその院生の人が言った。
「本当に、ネガティヴに捉えないでほしいんだけど。お前一番真面目なのに、一番空回りするよな」
不思議だよな、と彼は言った。
明白だ。
真面目が損する世だからではなく。
向いていないからだ。私は。
勉強だって嫌いだ。しかし同年代の人間達の半分くらいは羨むであろう学力はあったし、今も実際数字で見ればそうだろう。成績や点数や偏差値が上がった時の嬉しさと誇らしさは格別だった。私は頭がいいと思っていた。私は賢くて凄い人間だと思っていた。
でも何となく、向いていない事は自覚していた。もっと素敵な、得意な分野がある筈だと確信するほど、理系大学生という立場は向いてはいなかった。
しかし向いていないからと言って、他に行く場所はない。ここにいながらずっとずっと私の行くべき場所を探してきたが、見つからないままこんなとこまで来てしまった。今いる場所が、最善最適解であったと心から思っている。私にはここしかなかったし、ここ以外ない。
ないまま落ちようとしている。
研究者から妥協した。薬剤師から妥協した。首都圏の国立大から妥協した。教職資格を妥協した。全ては己の能力がついていかないばっかりに。妥協したということは、これら全てはさっさと妥協できてしまうほど、私の中では何ら重たくも何ともないものたちだったことを証明してしまったこととなった。
そして今、大学生という立場すら、降りようとしている。これだけたくさん妥協して、やめて、降りて、削って、甘えて、逃げて。親や多くの人たちから支えられて支援されて背を押されて、それでも。これだけやっても恵まれていても、最低限でもダメなのだ。
こんなことすらできない。
疲れてしまって、他をやろうとももう思えない、思いたくない。四年制大学の学生になって、あわよくば二年間院進して、そのまま就職して。そんな生き方しか想定していなかったし教わらなかったし、これが最適でこれ以外の生き方は不運と努力不足のものだと思っていた。
何もかも嫌になってしまった。自分が生きたかった生き方をしている者を妬み、そうでない者を見下し誰も信用しなくなった自分が大嫌いだ。こんなカスのような自分を助けられるのは、多分私しかいない。しかし自分は自分を助けようとはしてくれない。何故なら自分が大嫌いだからだ。
きっと、あの時の私の姉も、こんな気持ちだったのだろう。辛かったんだろうな。こんな辛い中、何もかも持って呑気に楽しく生きる妹が真横をちょこまかしていて、きっと殺してやりたいほど妬ましかったに違いないと思う。あの時、あの時何も知らないまんま、花畑のまま憎らしい妹なんか殺してくれればよかったんだ。
「別に期限内じゃなくていいんだよ?」
教授がこう言った瞬間、足の感覚が消えたようだった。お医者にかかって数日後に、理学部をやめたい旨を相談しに行った際に言われたことだった。
「……なんて……? 期限内、でなきゃ単位も出ないんじゃ」
「いいや? そんなこと一言も言ってないよ。二年経ってから出した奴いたなあ昔。時間経ちすぎて内容ボロボロだったけど」
徹夜しながら寒い実験室でカツカツカツカツ鉛筆で紙を突いていた時間。
「その人に……単位は?」
「あげたよ。出しはしたからね」
一つ黒鉛の点を打つごとに顕微鏡を叩き壊したくなるほどの。あれは。三十五枚必須の組織切片のスケッチは。
「な、らば」
激しい混乱の感情の隅っこにポツリと怒りが顔を出し、つい語気強めに教授に詰め寄ってしまった。
「何故〆切なんか設定するんですか」
「出さないじゃん。不真面目な奴ら。どっかで区切りつけないとそれこそ二年後とかに出すような奴ばっかになる」
「───……」
転校先の中学校の頃を思い出した。図書室が一週間に二冊しか図書の貸出をしていないと知った時、司書の教論に激しく抗議したのだ。教室の連中が嫌いで、そもそも中学の殆どが嫌いだった私は図書室に逃げ込むタイプの生徒だったのだが、図書館の開館時間も昼休みの六割程度しかなかった。それに大小あれど、基本私は一日で二冊読んで次の日返してまた二冊借りて一日で読む、を繰り返す速読であった。しかし司書は困った顔で言った。
『でもねえ、延滞する人ばっかになったから少なくせざるを得なかったのよ』
「……なら、せめて年明け期限にでもすればいいじゃないですか」
「ふうん。なら●●さんに言ってみれば? 聞いてくれるかもしれないよ」
今言ったって意味がないだろ。私の、徹夜して健康と心を壊しながら必死に課題をやっていたあの時間はなんだったんだ。真面目に期限をキリキリキリキリ、超えてしまうかもしれない恐怖を押し潰しながら動かない手を動かしていたあの時間は。
「まあ確かに不真面目な奴、君の班大変そうだもんねぇ」
「その不真面目に注意する義務は、教授にはないと」
「そうだね。不真面目はアイツらの自己責任だから、こっちが首突っ込む筋合いはない」
「ならばその不真面目によって真面目な学生の行動とメンタルが阻害されている場合でも、貴方方には介入する理由にはならないのですか」
話を逸らされた。
逸らされたのちに「言ってくれればよかったのに」に似たことを言われた。
そうか。私が言えばよかったのか。私が。小学生の子供のように。「教授~ナントカ君が真面目にやってくれません~助けて~」と。そうだろうな。言われなきゃ分からないものな。そうだよな。察してちゃんの私の行動が間違ってた訳だ。あはは恥ずかしい。
……。
◆◆◆
これを書いている今は年末だ。
母に大学を辞めたい旨を言ったらなんて言うだろうと沢山考えたが、何のパターンでも私は死にたくなった。例え状況的に私の最良が結果として発生したとしても、母は私を残念な子を見る目で見るんだろう。
何も知らない母は、早よ帰ってきなさいと私を促す。年末年始実家帰省。きっと美味しいものを用意してくれているんだ。大好きな末娘が久しぶりに帰ってくるって、メニューをどうするかわくわくしながら練っているに違いない。
「お寿司をとろうね」
とLINEが来た。泣いた。どうしてだろう。こんなにもいい母親なのに。
こんなにもいい母親なのに、年末顔を合わせて、もしも、大学はどうだとか院進はどうするかとか聞かれた瞬間、豪華な出前寿司の乗ったテーブルをひっくり返して彼らの前で叫んでしまいそうなのだ。
「アンタのためとかずっと言っておいて、全部テメーの願望だろう!」
「叶えられなかった願望を娘に押しつけてるだけだろうが!」
「テメーの願望を『ひとのため』に体よくすり替えてんなよ使えねえツイッタークソリプ野郎みたいなことしてきやがって!」
「『賢く産んでやった』だ? 今の私を見て何処をどう賢く産んでやったか、端から端まで言ってみろ!!」
「『好きなようにやれ』? 『何になっても何を選んでもいい』? 私の好きなひとたちの話をすればその人の模試偏差値や志望大学や出身大学の偏差値を執拗に聞いてきた奴のどの口が言ってんだよ!」「私が持ち帰ってきた模試結果の偏差値が60以下だった途端落胆した顔見せつけてきた母親は一体どこのどいつだよ!!」
「やめたきゃやめていいと言っときながら圧ばっかかけて来やがった自覚はねえのかよ!」
「気の合わねえ上の娘と自分の間に末娘挟んで潰してくれやがって!」
「母を許さないだの娘に死んでほしいだの私にわざわざ言いやがって何してくれたんだよ!」
「私は大好きだったのに!!」
「例えどうなってたってお姉ちゃんもお母さんも家族みんな等しく大好きだったのに!!!」
「死ねばよかったんだ!」
「あの時全員四人揃って、仲良くみんなで死んでりゃよかったんだッ!!」
ここまで言ったところで脳内の母か父にぶん殴られた。父が殴るのは想像の中であっても酷く珍しい───というか、殴るとこは見た事すらないのに。死ねばよかった、の一言で、激昂する父が明白に見えた。
アハハアハハやっぱりな、ほらやっぱり私が全部合ってるじゃないか、味方になっちゃくれねぇんだよ。恩知らずの私が全部悪いんだよ……。
脳内の私は殴られたところを押さえながら独りで外へ出て行って、逃げて、逃げて、逃げて、横浜駅の片隅、あの人通りのないくせに無駄に広くてホームレスの溜まり場になっている地下通路、私が予備校時代毎日通って毎日見てたあそこ。ああはなりたくないと、心の底から怖くなったあの場所。
あそこの片隅で泣きながら死ぬんだ。
母は本当にいい人だ。本当に勘違いしないでほしい。私に幸せになってほしいだけの、いい母親なのだ。
姉が壊れていた時代だって、私を凄く気にかけてくれていた。私が姉の塾(遠方)通いに付き合わせられてたのも、私が中学校での楽しかった話をしづらそうにしていたのも、よく見てくれていた。普段色々我慢してくれてるからね、とほしかった玩具を買ってくれたのも覚えている。
今住んでいる優良マンションを大学出願前から見つけてキープしてくれたし、受験の時は高いホテルで前日入りでのんびりさせてくれたし、冷房代暖房代なんか気にしないで快適に暮らせって言ってくれるし、バイトなんかしなくとも趣味に豪遊できるほど仕送りは多いし、留学に行かせてくれたし……本当に、大半の世の人間が羨むいいお母さんなのだ。
父だってそうだ。毎年どこかに旅行に行けたのも、行きたい学校に行けたのも、いい土地のいい家に住めてご飯が豊かに食べられたのも全部父が稼いでくれたおかげだ。何でもやりたいことをやれ、は母と同様父も言ってくれていたし、私が何となく困っているとパソコンを閉じて真摯に力になってくれようとしてくれたし、機械も日曜大工も得意な父に頼めばテクニカルな困りごとは何でも家の中で解決した。
姉だっていい姉だ。私が赤子の頃が本当に蝶よ花よと可愛がってくれたそうだし、反抗期っぽい時は私を『嫌い』と断言していたが、今は気にかけてくれる。彼女もそんなにガラでもない筈であるから分かりやすい行動は見たことがないが、私が中学時代後期やや病みになった時も随分心配していたようであるし。今もツイッターが低浮上になるとそこそこそわそわしていたりする。
誰よりも恵まれた環境で育った自覚がある。ひとが何と置き換えても欲しかった、でも絶対手に入ることはないものたちを私は当たり前のように持っていた。家の中ではボケとツッコミが横行し、仲良しな家族ねえ、楽しそうなお宅ねえと皆が言う。
末子の私がこんな思いと同時に
『全員死んでほしい』
と心底願っていることを知ったら、彼らは一体どんな顔をするだろうか。知りたくもない。墓まで持ってくつもりだった。今の精神状態では、勢い余って口走ってしまいそうだが。
こんなにもいい家族だって、ちゃんとずっと分かっているし楽しい思い出も全部覚えているのにならばどうして、どうして私は先程の怒涛の太字のようなことを考えているのだろう。どうして今の私のようなのが生まれたのだろう。
母は何を間違えたのだろう。彼女は何も間違えてはいない。彼女は何も悪くない。
父は何を間違えたのだろう。彼は何も間違えてはいない。彼は何も悪くない。
姉は何を間違えたのだろう。彼女は何も間違えてはいない。彼女は何も悪くない。
では、私は何を間違えたのだろう。そもそも何が正解なのだろう。今までの私は何が許されていたのだろう。今の私は何を許されているのだろう。
医者に「休みなさい」と言われた。いつまで休んでいいのだろう。いつまで逃げてていいのだろう。いつから「ちゃんと動け」と言われるのだろう。誰にそれを言われるのだろう。どっちを向いて動けばいいのだろう。それは私の意思だろうか。また同じことを繰り返すだけじゃないのか。
徹夜と自傷を繰り返し、自分を傷つけていたのは自ら壊れたかっただけじゃないのか。耐えれば終わる嫌なことからまたしてもさっさと逃げたくて、ただただ見苦しい道化をやっただけではないのか。私はちっとも可哀想じゃなくて、必死こいて理由を探してこじつける、逃げ癖のついた甘ったれの脛齧りのまま被害者ぶっているだけではないのか。私が一番何よりも、心の底から軽蔑し消えるべきと考える存在が、まさに今の私なのではないか。
あーあ。
これらの悩みをぜーんぶ、一度に解決する方法を私は知っている。
しかし私はロクに実録レポ漫画ブログ記事など読み漁ってはいない。痛いらしいし、苦しいらしいし、後悔するらしいし、しこたま迷惑らしいし、めっちゃ失敗するらしいし。別個の記事として書くつもりだったが、世の中そう言う願望を持っていても、実際『やる』人間と『やらない』人間と二種類いると思う。私は後者だ。ビビりだし。まずまだやりたい事が沢山あるし。
こういうとこ含めて、世の中はうまいこといかないわよね。
石澄香