石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

手遅れってヤツ

【日記】

 「酒を避けなさい」と言われた。

 かかりつけ(精神科)医のおじさんに。のでサケている。おサケを。家の中に1ダース安ワインがあることがそもそも問題だと思ったので、そちらを先に片付けて『アルコールを買わない』ということを己に課している。720mLは一晩で消えるので今月半ばには、我が家から酒類は消えるだろう(友人が置いてった炭酸入りの奴を除き)(アレは何があろうと口にはしない)(僕は炭酸が飲めないため)。

 以下本編。

 

 「全人類皆産まれた時から手遅れなんですよ

 

 という言葉に、救われたことがある。

 今もたまに思い出している。そして思い出す度、牛刀掲げて己が頭に刺そうとしていた私は、『せやんなぁ』と刃を下ろし、着席する。

 それに関して記述する。

 

 高校三年生の頃のある日であった。

 年度末付近だったか、全校単位で三者面談が開催される時期。私の属するクラスを三年連続担当する、我が担任は言った。

三者面談するけど、その前に皆んなと二者面談がしたい」

 他クラスと違ってて悪いけど、日程表配るから空いてるとこ教えて。と続けて担任はこう言った。

 ヤベー人だなと思った。教師とは尋常ではないレベルにド多忙だ。今でこそ私には『学校教論はブラックで多忙でやりがい搾取に等しい職業』という認識があるが、そこまでの認識もなかった高校生当時の私すら、その担任に対して「ヤベー担任だ……」と思った。受験期たる高校三年生の担任だぞ、しかも学校制度的に恐らくは“国公立への進学率”を託されている、恐らくは校内で最も責任重大な教師だぞ。

 私自身がその立場に立っていると仮定しよう、うーん、ピリピリしている保護者との三者面談というだけでどれだけストレスフルだろうか。だのにこの担任はその直前に、自ら───しかも“面談は一人二十分程度”という校内での常識をハナから破り、

「一人三十分見積もります」

 とスケジュールを組み、生徒に予定表を配っていたのだ。馬鹿なのかこの人と思った。一人あたり十分増えて、放課後に五人程度を相手すれば、通常の一時間弱は残業である。

 ヤバくない? あのね教師ってヤバいんですよ、ねぇ、これ読んでるそこの貴方。私は同時に恩師らが心配になります。教師がヤバい話は置いておいて(政治的な話をするなら絶対置いておいちゃいけないとは思っているが)、私の高三時のその担任はまぁ、初手そんなヤバい感じの教師だった。

 

 私は確か何処かの曜日の、十七時過ぎの、微妙な時間を希望として出した。所属する部活も活動がゆるゆる、予備校の講義もない曜日、一番『先生に負担をかけない生徒』である自覚があったためだ。

 私の生涯には“好きな先生”が沢山いる。総合的にも己が優秀さを無意識下で自負していた私は、愚かにも『私こそが私の好きな先生達にとって一番“迷惑ではない”生徒である』という傲慢たる自認を持っていたのだ。端的に言えば、模範的で理想的で兎角波風というものを立てない生徒が自分である、という風に思っていた訳だ。

 故に、一人当たり三十分面談時間をとる、と言っていた担任に対しても、

 『まぁ僕なら十分強で全てが終了するやろ』『今日は定時で帰れるぜ、よかったな担任』

 とすら思っていた。

 

 結果。一時間弱面談した。

 あなやどうしてこうなったのか。私が定刻に教室に訪れた時には確かに担任は、なんか、何故かベランダで黄昏ながら自身が顧問を務める運動部を遠目に見物していて。で、早めに教室に来た私に

「おお石澄さん、今日は早め早めに面談が進んでいて時間に余裕がありますよ」

 と微笑みと共に諸手を広げていた筈だ。

 私としても「おやァーそりゃ朗報っスねェ!」と軽口叩きながら席についた筈だ。

 しかし面談時間を気にする頃には既に一時間弱経っていた上、私はボロクソに泣いていた。嗚呼ツラいことがある、今は既にツラい筈はないのだが、しかし他人に話してみれば兎角何故かツラいことがある、などと訴えながら担任の前でケチョケチョになっていた。

 担任は「ほほお」とばかりに表情ひとつ変えていなかった。内心動揺してらした可能性も否めないが、目の前の当人に悟らせない時点でスゲェ人だ。

 思い返してみれば出会って数ヶ月の頃も、余裕カマしてた私が突然中の上くらいに重たい相談をふっかけてしまった時にも

「ああ。石澄さん、そろそろそんな相談してくる頃だろーなと思ってましたね」

 と平然と首肯していたのがその担任だった。ヤベ〜人間が俺の担任になったもんだなァーッと当時は心中で叫んだものだ。確かにヤベ〜人間だった。

 

「……家、飛び出しちゃおっか」

 咽ぶ私の話を最後まで黙って聞いて、担任は確かにそう言った。

「実家を出たいなら、私から地方の大学を次の三者面談で提案する事も出来ますし」 「偏差値がどうとか、私は関係ないと思うんです」

「大学がアレなら、ほら『担任に脅されたから』と言って後期日程に問答無用で願書出しちゃえばいいんですよ」

 担任、嗚呼担任。母親もといそれに触発された私がかつて傲岸不遜にも

「土曜の授業より予備校の講義を優先させたい」

 と打診した(無論私の口から担任の耳へ)際も、『学校としては非推奨』と建前を述べつつも

「無論体調不良も致し方なし。休む時は学校に連絡してね」

 と言外に『予備校優先も許可する』と仰った人だ。確か入学直後一ヶ月で私が咽び泣きながら人間関係の障害を(猛烈に不本意過ぎながら)訴えた時も、この担任は当時の私のぐちゃぐちゃで何の価値もない感情を確かに尊重してくれた。

 私は今までこの十七年間、どれだけのことから目を逸らして馬鹿を装っていたのだろう、と泣きながら言えば、担任はまた言った。


「石澄さんは馬鹿だったんじゃないんです。自我が芽生え始めただけです」

 

 教師の難しさの一つは、保護者の意思と生徒の意思を両方尊重し理解し存在を許すことだ。これが、どうしても私には出来ない。

 長々此処に記述した“我が担任”は、初めは教師になる気はなかったという。教員免許を持ってたが故に就職難を逃れたのだ、という。大学院で変な時間を過ごした、ただ就職機会を逃した、と。……その生徒であった私としては、『そんな都合のいい天職の見つかり方あるか???』と思うのだ。

 我が担任は、きっと教師になってよかった。

 でなければ少なくとも私は、此処にはいない。

 

 ───そして冒頭に戻るのだ。到底三十分も過ぎる筈がなかったその号泣面談で、私は去り際に担任にこう言った。

「こうも相談をしましたが、私はもう自身の何もかも“手遅れ”であるような気がしてなりません」

 と。

 すると担任は即答したのだった。

 

「何言ってんすか石澄さん。石澄さんくらいのヒトが“手遅れ”ならね、人類皆産まれた時から全員“手遅れ”じゃあないですか

 

 真顔でスルッと述べた担任のその言葉に、私は。

 ……た、確かにせやな……と思った。

 変えられねーところは変えられねーし、しかし僅かに変えられるところは変えられる。“変えられねー”ところはそれを“変えようとできるか”の己の性格気質にそもそも属しているものであるし、己が主体として“変えられなかった”のは“変えられない”ものだったのだ、と割り切る。自身が手遅れだと悲観するならば、周囲の全員も何らかの“手遅れ”を抱えている。ただその“手遅れ”が一致しないだけ。

 人間はその知性と社会性でもって、形質等大きく変質させずとも長らえてきた生物種。故にその社会的生物種に産まれたが故に果たさねばらならない責任も重く付き纏うが、しかし逆にその生物種として産まれたが故に受けられる恩恵も片っ端から捻り取ればええんじゃあないかと思っている。

 心の底から笑って死んだ者勝ちなのだ。

 

「水道で目元冷やしておいで」

 と担任は言った。ボロカス泣いていた私は、トイレの水道で目を冷やしてきた。戻ってきた私に担任は言った。

「お母様にその目を追求されたら、『担任に泣かされた』と言いなさい」「『国立大に行け!』とプレッシャーをかけられて、怖くて怖くて泣いたと言いなさい」

 生徒の模試成績管理用のiPadをちょもちょも弄りながらまた、担任は続けた。

 「貴女のお母様との面談を思い出すに、お母様は私のことを、“よい担任”としてかなり信頼してくれている」「私の言うことなら、あのお母様ならある程度は頷くでしょう」「今は石澄さんとお母様と、全面戦争するべき時ではないと考えます。それを避けるためならば、私という担任の存在をいいように利用してください

 自分を悪者にしていいよ、と担任は平然と言っていた。

 平然と生徒へこう言える教師が、この世に何人いるだろう。担任は兎角“信頼”を得るのが上手かった。台本もある訳がない三者面談で、こんなテクニックを使えるのは“ヤバい教師”以外にあり得ないだろう。

 

 石澄香

 

【好きなもの】

 ワンタン