石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

所謂“言霊”のような奴

 やっぱ言わなきゃよかったかな〜〜〜と後悔することは人生において多々ある。残念ながら。

 『考えてから発言しろ』、これは心掛けていても、どうしても稀には発生する問題だ。それら全て勿論、言っちまってから後悔する。本来の意図にそぐわぬ伝わり方しちゃったな〜だとか、一方的感情をぶつけちゃったかな〜だとか、言わない方が認識し合わず済んだ筈だから楽だったかもな〜だとか。今これを書いている私が絶賛大後悔時代なのは、その三つ目の奴。

 言っちゃったのは、というか“聞いちゃった”のはもう何ヶ月も前の話だ。

 

 ひとが口から放って耳から受ける言葉というものの威力は絶大である。ぼんやり心の中で漠然と認識だけはしていた事物も、口に出す→耳で聞くという単純なプロセスを踏むことで、急にその解像度が増す。今まで殆ど意識すらしていなかったことについても「私は○○だ」と口に出したが最後、その○○は即刻具現化しちゃうことがあるのだ。ひとの脳とはそのくらい単純だと私は思っている。

 「かもしれない」で止まる話を「間違いなく」と断定口調で言葉にした時、それはその人の中で絶対的な事象に変わる。「好きでもない」程度のものに対して「嫌いだ」とハッキリ口に出して言った時、それは『好きじゃない』から『嫌い』に格上げ(下げ?)される。逆も然り。

 このようなプロセスでひとの思考は整理され、思いつかなかったことを思いつき、目を逸らしていたものと向き合うことができる……というメリットもある。しかし同時に、正確性が危ういものに対して勝手に誤ったラベリングをしてしまい、その上その事に自分で気付けないまま日々過ごしてしまうという事態も起こりうる。世界に対する認知の歪みや齟齬の原因にもなるだろう。他者と接触する上で一番厄介で、一番トラブルの種となり、一番頻繁する問題がこれだと思う。

 

 私があの時「貴君、もしや私のことを好いているんですか?」と聞かなきゃあ、かの青年は私のことを好きにならなかったかもしれない。

 その時の返答はまだ「意識してなかったがそうかもしれん」だったんだもの。「そうかもしれん」とさえ言わせなければ、彼は「好き」にならなかった可能性の方が高いじゃあないか。かー。

 人間、非言語的なものは言語化しないとトラブルのもとだらけになるし、コッチがあらぬ自意識過剰を抱いていたら大変じゃあまいかと思って聞いたのだったが。嗚呼聞かなきゃよかった。哀れな彼は今、丸っきり跳ね返って来ない好意を私に投げて続けている。私の人生は希薄なので、跳ね返してあげる気は私に起こらない。常に私の生気は閾値のギリギリを攻めている。

 嫌われるよりは無論好かれる方の人格である方が都合がよいのでよいのだが、直向きな彼と会うたび罪悪感がエゲツないのだ。今まさに罪悪感でメンタルが金魚のフン状態 一般的な女性と比較し自分が多義に渡ってカスな自覚があるので、本当彼には早いところ別個で恋人を見つけてほしい。残念多分私はアです。

 

 (という話もちゃんと言語化して向こうに言っている。その辺も含めて俺という人格は塵芥)

 

  石澄香

 

【Today's 私の好きなもの】

 雪が積もって全体的に彩度が下がった景色