石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

床暖とライン

【日記】

 ポテトサラダが好き。きゅうりとか玉ねぎとか明確な“しゃきしゃき要素”が入ったポテトサラダが好き。特に自力ではとてもじゃないが作れないというか、惣菜として買った方がダントツでコスパがいいものトップスリーに入るのがポテトサラダである。以下本編。

 

 母が連絡してきた。

『暖房つけているか』とね。

 当たり前じゃこちとら最低気温何度やと思うとるか寒くて目が覚める室温になっとろうて暖房無きゃ死ぬるわいと返すと、『ならばよい、電気代が足らぬなら支援するので言いなさい』と、決まってこう百点満点を返して来られるのだ。

 去年も全く同じ時期に同じことを聞かれた。一昨年も聞かれた。私が一人暮らしを始めてから毎年欠かさず、十月半ばから下旬になり始めると母はLINEを飛ばしてくるのだ。私はといえば『サーモセンサーかよ……』と思いつつ、基本毎度普通に返答するまでだ。元来より私の母が千里眼気質であるのは今も昔も変わらない。毎年の其れに対する返答も形骸化したものだ。

 ただ、去年の其れに関しては、去年、当時の私はそのメッセージを認識した次の瞬間には

 

よし死ぬか…………………

 

 とまず思っていた。

 

  ◆◆◆

 

 “死ぬか…”という単語は、結構頻繁に若者の間で使われる。ような印象を受ける。若者の身としては。

 社会的死や恥辱に直結しかねないミスを、他でもない己が犯してしまった時に発するものが多いような印象を受ける。

「期末の提出課題の形式ミス、〆切前日に気付いたわ」「フーン死ぬか……」

 目の前に迫る、規模の予測すら困難なほどに尋常ではないストレスを、“死”でもってしてヒョイと回避することを短絡的に望むのだ。“死”は魅力的だ。生きていれば必ず負うであろう苦痛やストレスを、断じて受けることがない。

 断じて、だ。

 確率が低くなる、というような問題ですらない。何十年もの単位で生きることが前提となっているホモ・サピエンスとしては、実質的な確率の数字へ頼り切ることはあまり現実的ではなくなってしまう。排出率0.1%未満のソシャゲガチャで、見事数回以内で目当てを引くこともあれば……成功率85%のTRPG技能の成功率で連続して失敗することもある……それが人生だ。

 そんな中で、この世で数少ない『絶対』という概念の中で、“死”とは。迷いなく『絶対』と言える概念だ。

 

 死ねば絶対苦痛は味わわない。

 死ねば絶対ストレスを負う必要はない。

 死ねば嫌なアイツに顔を合わせる必要もない、言葉を交わす必要もない。大嫌いなあの概念を認識する必要もなくなるし、精神のプラスの状態からマイナスへ陥る時のあの途方もない絶望感を味わうこともなくなる。絶対に。絶対に。絶対にだ。

 世の自殺志願者とは、この辺を求めているのではないかな。

 私の観点としてはこれらに加えて、私が死んだ時に途轍もない苦痛を負うと考えられる人間達に絶対的な苦痛を負わせるためという並々ならぬ目的もあったが、これに関しては“人それぞれ”の部類に篩い分けられると思うタイプ、だと思う。

 例えば母親である。例えば姉である。例えば半分とばっちりの父親である。

 彼らの人生が不可逆に歪められるという確信を以てして、私は近所の天文台を見繕って眠剤貯蓄に勤しんだところがある。

 苦痛を負うのが狙った彼らだけだったならどれだけよかったかね。勿論認識していた、絶対に苦痛なんか負わせたくない人間達にも、相対的でなく絶対的なる同じものを負わせることになるということは。

 しかしそんなことはまるで重要でなくなるのだ。優先順位は低くなるのだ。寧ろ相対的にぶっち切りで順位高まる概念が他にあるのだ。

 それは“逃避”と“復讐”という概念だ。

 そのためならば何をしたって良いという思考に陥るのだ。嗚呼思い出した。酒飲んで自分のロクでもねェ人生のこと考えるとちゃんと思い出す。忘れないようにしなければ。

 

 私は私の愛する人々を揃って同時に漏れなく確実に的確に不可逆に不幸へ陥れようと、自身の目的の道連れにすることを本気で考えたことがあるのだ。

 

 去年の今頃、母親が例年通りに『暖房つけなね』と連絡してきた頃は、大気中の酸素を消費することにすら罪悪感を覚えていた頃だ。暖房などもってのほかだ。しかも親の金を使ってまで。

 己は凍えて死ぬべきだと心底考えていた。内臓機能を低下させて死ぬべきだと。幸福の何たるかを一切思い出せぬまま死ぬべきと。直ちにこの場で死ねと。そのように考えていた。

 しかもそんなカスに等しい己がメンタルの旨を完全に秘匿していたため、一層その気持ちは強かった。千里眼の母親といえど、言葉も聞けず顔も見られず挙動の把握もしきれずという状況では流石に知る由もなかっただろう。年明けぐらいに知られる羽目になった訳だが、暖房のオンオフを心配される頃にはまだ知られちゃいなかった。そんなこんなだったので、私は考えた訳だった。

そろそろ死ぬか……

 と。本気で。

 しかも床暖がついている現在の“住”を見繕ってくれたのはこれまた親である。家賃を払ってくれているのもこれまた親である。

 また、こんな献身的な親を持って義務教育範囲外の教育機関へ満足に通える時点で恵まれているにもほどがあるのだ。母親から暖房をつけなさいねと心配されただけで希死念慮を抱くアホクソの一体何処に実質的生存価値があるのか?

 こんな感情を抱く自分が相応の恩恵を享受する資格が一体何処にあるか?いやない(反語)故に今すぐ私は私が今立っているこの立場から退場して他の誰かへ譲るべきなのだと。生命活動を停止すべきかと考えずして何を心配できるだろうか? 今となっては思考が極端過ぎるものだが、今でもキチンと当時のこれらは納得することができる。

 

 何の話しようとしてたっけ。

 そんなんなので最近は床暖つけてんだけど、寝具を床に直置きは衛生上良くないとか言われてるらしいんだよね。固い寝床が好みなんだけど。寝起きで布団片す元気も流石にないし。

 うーんどうしようね。

 

【好きなもの】

 しゃきしゃきが入ったポテトサラダ