石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

箸の持ち方

【日記】

 眠剤なしで寝られる術を思い出した。毎度眠剤を薬局で買う時「眠気を引きずることはないですか?」と薬剤師さんに問われ、「ないですね」と心底そう信じて返していたが、この二年弱ほどずっと嘘を述べていたことに気がついた。

 眠剤を飲んだ日の次の朝のあの致死的な身体の重さは、生来のものではなかった。眠剤の作用を引きずっていたのだ。飲まずに寝た翌日の朝の身体の軽さには、目を見はるものがある。

 以下本編。

 

 いい本を買った。

 その作者が好きで、かと言ってその著書全てを読んでいる訳でも暗唱できる訳でもないが、漠然と『いい文章を書くな』と感じている人の新刊を買った。いい本だ。分厚いし、しかし中身はかなり細かい小分けタイプなのでゆっくり読もうと思う。作者本人は『電子書籍サイコー』と言っていたが、分厚いながらも質量が不相応に軽いことや天がアンカットであるあたり、やはり作者の方も本は紙媒体が好きなのではないかと思っている。私は電子書籍が苦手だ。読み難いし読み応えがないし寂しいから。

 で。その本の中で“箸の持ち方”について話題が出ていて、それで私にモノを書く欲が浅ましくもあって、いい感じに忘れたいネガティブシンキングに囚われている最中で、ブログを不定期で書く奴であったので、その話題について何か書いてみようかと。つらつらと。つれづれと。

 

 “箸の持ち方”でよく問われるのは所謂“育ちの良さ”である。二本の棒を手で握りしめるように握っている成人がいたとしたら、嗜められるか怪訝な顔をされるパターンが多いだろう。

 それほど会ったことがないが、余程でなければ私も嗜めるかもしれない。それに嫌悪感を示すかもしれない。

 例えば箸の持ち方である。例えば筆記具の持ち方である。例えば文字の書き順である。例えばカトラリーの並べ方である。例えばアフタヌーンティーの菓子を食べる順番、お着物の着方、焼香の手順───

 ───教養である。持っていれば、この世に存在するものを楽しむ機会が増えるもの。人として生きて死ぬだけであれば、別段必須ではないもの。子供の間に学べた人間が大人になってから頻繁に、あるいは少ない機会に効力を発揮させるもの。そして大人になって自立してからは、腰を据えて学ぶ機会があまり訪れないものたちだ。

 幼少期に私は箸の持ち方を矯正された記憶がある。指を通せるリングがくっついたやつを、数ヶ月持たされて家で食事を取らされた。あとは足を広げて背を丸めて食べる姿勢が不適切であるとして、食卓の椅子背もたれに剣山をつけられていた時期もあり、「足を広げたら椅子の座る所の両端に剃刀をつける」と脅されたこともあった。思い返してみると字面的にかなりヤバいことをされていたモノだ。躾に際してあからさまな怪我をしたことは一回しかないのが幸いである。

 実際上記のように述べた躾に関しては、今も私は“妥当であった”という認識だ。少なくとも現状の私しか知らん者からすればきっと、私は本当にクソバカでオタンコナスで脳内花畑なアッパラピーのアンポンタンガキンチョでしかなかった。そんな子供一人相手では余程いう事を聞かなければまぁ、手近な鈍器で殴りつけることも一回くらいはあろう。私も殴ってしまうかもしれない。だから私は子供を持ってはならない

 しかし大学の教職課程で出会った人がそれに関して、

「いや私は信じられない! どれだけのことをしてようが、殴るなんて行為はあり得ないと思うな!」

 と言った時、成る程……と非常に興味深く思った記憶がある。その人は私の親を否定したのではなく、『少なくとも私の感性ではその行為は許容し難い部類に入る』と教えてくれたのだ。成る程ハタから見ればそういう視点もあるかと、虚をつかれた思いがしたのを覚えている。私だって同期が「父親殺したいくらい嫌い」と言った時とてもじゃないが許容できなかった。誰しもそういう概念があり、そして必ずや世界の何処かにはそれを漏れなく了承できる人間も存在するのだ。

 言ってしまえば、私は育ちがいい部類である。

 それらは違いなく“躾”の賜物である。過程がどうであれ、私はそれにとても満足している。

 箸の持ち方が綺麗だとか、“右”を書く時ちゃんと“ノ”を一画目として書くだとか、楽器が弾けるだとか、他者のそういうサマを見た時に私は安直な好印象を抱く。その是非は兎も角として、私はそんな自分がちょっと嫌だなと思う時がある。浅ましいなと思う。見てくれの良さだけで恋愛対象を決める人間たちと私には、きっと何ら違いはない。

 箸の持ち方で人格は決まらんだろうだとか。そんな風に私はひとをフォローしようとする。

 しかもそうやって『育ちが良かった側』から偉そーに他者を評価しようとする自分が見えると、ちょっとどころではなく嫌である。私という人間は常に全方面へ偉そーだ。ド失礼だ。傲慢で無知でそれ故に軽薄だ。己は何もかもを勝ち得ていると奥底では勘違いしており、己の努力とは全く無関係に無償で享受したものを振り翳し、それらが完全に自身の揺るぎなき価値であると思い込んでいる。

 と。言葉にしておくことで少しでも自身の存在の許しを乞おうとしている。

 ここまでが恒例の流れであった。

 

 箸の持ち方は綺麗な方がいい。

 まず箸を持ち始める手順からマナ~に則っていると、素敵である。

 そしてそのような価値観を持つ自分自身が、他でもない自分自身がそれらを実践しようとすることで、無意識的に他者からの好印象を掻き集めようとしているのであった。

 私はただ、無条件に全人類から好かれたいだけの高慢ちきな者でしかない。

 

  石澄香

 

【好きなもの】

 美味いホタテ