石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

唯ぼんやりとした頭痛

【日記】

 冬服を仕舞えず、夏服を出すことができない。寒暖差は激しく、しかしお気に入りのトレンチコートはもう必要ないだろうという時期になってしまい、寂しい。一年中トレンチコートを着ていたい。以下本編。

 

「……え? 死にたくなりません?」

 と私が問うと、彼らは

「ならないな」「なんないねえ」

 と返してきた。よく熟慮せずとも、当たり前の返答である。

 

  ◆◆◆

 

 まあ何というか端的に言うと死にたいなあと最近考えている次第である。

 いやこのように連呼すると明らかに問題であるし、これから後述されるだろうがここで言う『死にたい』は俗に人々が考えるようなものでもないから、この場においてのみ良い感じに言い換えをする。

 まあ何と言うか端的に言うと頭痛がするなあと最近考えている次第である。

 おかげさまでやめられた筈の睡眠薬にまたしてもお世話になっております。頭痛がする要因に具体的な心当たりがないのが、些か堪えている。頭が痛むのには嫌なことがあったとか辛いことが続いているとかそれらから逃げる術がないとかそういう何らかの要因があってこそだろうと思っているが、あんまり心当たりがない。とても忙しいのは確かだが、その一つ一つは全く嫌ではない。楽しく会話できる人がいて、最低でも一週間に一回はその人たちと他愛なき世間話をすることができる───20年度の冬以降の一年間と比べれば、なんと素晴らしい日常か。

 20年度の冬から去年の春くらいまではず〜〜〜っと頭が痛く、たまに発狂寸前の痛みが到来し、どうにか眠剤を飲むなりお酒を飲むなり友人に「頭が痛え」と愚痴るなりで乗り越えつつ生きてきた。最近は殆ど痛まない。が、痛みがそっくり消えたことは、ない。意識しなくなることはしばしばあるが、頭の隅っこに頭痛は常に静かに燻ったままなのであり、その存在を何ら疑ったことはない。

 頭が痛い、など周囲の人間皆よく訴えていることだ。だからと言って痛みの程度を軽視するつもりは毛頭ないが、これは至極当たり前の苦痛。

 

 ただ先日、寝付きの悪い夜、夜中にいきなりスゴい勢いで激痛が頭を貫いた時は「全人類こんな痛みを抱えてなお昼間は平気なツラ下げて生きているのか!?スゲエなァ!!!」と寝床でのたうちながら思った。

 先日高校の同窓会に行った。元気そうかつ輝いてそうに見えたかつての同級生たちだったが、一対一で話してみるとどいつもこいつも頭痛で全てが終了しかけた経験があるらしいことを零した。私とは(少なくとも表に出る限りの)性格が違う、違う進路選択の、色々と全く違うはずの人間たちは皆頭痛を経験したことがあるっぽいという印象を受けた。

 だから此間久しぶりに、強く明確な存在感を持つクソデカ頭痛を覚えた私は「皆こんな頭痛を味わいながらもクソ真面目に生きてんのか!?人類皆頭が痛いのに!? たまんねェ世の中だなァ!!!」と思ったわけだ。皆、頭が痛いくせに人前では素知らぬ顔をして社会性を獲得した生命体らしく振る舞っているのだ。皆頭が痛いのに。今まで知りもしなかったが、トンだ世の中だなぁと思った。

 

 が。丁度そんな風に考えていた矢先に聞いたのが、この記事の冒頭辺りに書いた会話である。

 研究室で聞いたものだ。尊敬する先輩であるイカルさんと、尊敬する先輩であるサガワさんと三人で世間話をしていた。内容は、昨年度で修了し出て行かれたこれまた尊敬する元先輩ヨシキリさんの噂話。ヨシキリさんとは半年程度の付き合いだったが、それでも『慕われている』と分かるお人であったし、私も直接的にお世話になったこともあった。

「ヨシキリ君ねえ、研究所で夜中に一人で薬品精製の作業を延々としてた時めっちゃ頭痛くなったんだって」

 イカルさんはそう言って、彼のそのメンタルが“めっちゃ可愛くて大好き”な旨を話してくれた。マジで「好きだなって思った」と仰っていたが、私はというとそれを聞いて

「ああ〜そら頭痛くもますよねえ……」

 という反応しかできなかった。論文提出やらの研究関連のタスクに大量に追われている時期、しかも寒い時期、誰とも話さずに何ら複雑な考えを必要としない単純作業に延々と従事していれば、頭痛がするに決まっている。最終的にネガティブな自己完結で終わるしかない、自己のみに関連する思考が永遠に脳内を巡るからだ。三年弱前の自分を思い出す。そりゃあ頭も痛くなる。そう思った。

 だが私が「痛くなりますよねえ」と言うと、「あれ? 澄ピョンはヨシキリタイプなのかい?」とイカルさんから返ってきた。澄ピョンは私のあだ名

「……え? 頭痛くなりません?」

 と私が問うと、彼らは

「ならないな」「なんないねえ」

 と返してきた。……よく熟慮せずとも、当たり前の返答である。

 もしかして人類、頭が痛くなったことがない人の方が多いのか?と思い至る。いや、そりゃそうじゃ。頭が痛くなるのは本来異常なことだ。異常でなければならない。だが本当に? 頭が痛くなったことがない人間がこの世にいるのか? 私は意味もなくこんなにも頭が痛いのに?

 友人の一八君に聞いてみた。彼もまた私と同じニュアンスの、クソデカ頭痛を知っているタイプの人類だ。『もしかして全人類頭が痛い訳ではないのだろうか!?』と相談してみた。

「頭痛がする、と訴える大学生は多い。でもその大半は『ちょっくら短期的に南国へ逃げ出した〜い』とかその程度の嘆きでしかなくて、心底頭痛で沈みかけたことはないのでは?」

 と返してくれた。統計を取った訳でもないので、真偽は不明である。だがどうも全人類が頭痛持ちということではないらしい、と私は察した。

 

 先ほどからさんざ『頭が痛い』とは言っているが、具体性を帯びている訳ではない。

 本当に、真の意味での『頭が痛いなあ』とかそういう感覚で襲われるものだ。なんか今日は頭が痛い日だなとか、その感覚が近いだけだ。ゾッと胸中に湧きべっとりと私自身を支配するあの不愉快な苦痛を表現することが、『頭痛い』と溢すのに結構近しいだけだ。目が覚めて直後に頭痛がする、講義を受けている最中にふと頭痛がしてくる、人と話をして別れて独りになってから頭痛が湧き出す、そんな感じ。

 三年前は結構“具体的”だったが、最近は少なくとも具体性を帯びてはいない。ちょっとしたことから頭痛を自覚したり、人と離れたり日が暮れてから頭痛が強まるのを感じたり、そんな程度であって、頭痛によって日常生活に支障をきたしていることはない。ただ、頭痛の根底には確固たる要因が常にあるはずなので、どうして頭が痛んでくるのか明確な理由が存在しているはずなので、薄ぼんやりと背後を付き纏う頭痛に気味の悪さを覚えているだけ。

 

 これを書きながら色々と要因候補を検討してみたところ、それらは無事一つの要因に収斂していった。さっさと寝たいし面倒だしより一層読んだ人に暗いものを押し付ける話になるので、一先ずこの場では書かない。そしてそれは、『それについて考えすぎるとメンタルがイカれるのでいっそ考えるのをやめておこう』と一年くらい前に決断したポイントである。

 ひいては、結局は実家への感情である。

 ま た お 前 か。

 しつこいにも程がある。別にもう殺意だとか憎悪だとかではないが、その感情で以って私は現在進行形で自己否定をせっせと行っては自分で頭を殴りつけて、結果として頭痛を引き起こしている模様だった。アホ。

 そもそも何故自分はここに存在しているのか? という問答を勝手に行っている時点でアホとしか言いようがない。しかし頭痛は続いている。年を食う前に若いうちに頭痛を治しておかないと、本当に死ぬまでこの頭痛を抱える羽目になりかねないので、ある種の焦りは覚えている。

 しかしこの将来に対する唯ぼんやりとした頭痛は解決されることがない。嗚呼困ったものだな。

 

 石澄香

 

【好きなもの】

 翡翠の尾羽

小学時代の懐古(クソデカ誇張版)

【日記】

 身長また伸びてた。成長期か? 目標身長の180cmは今からでも目指せるかもしれない。以下本編。

 

※身バレ回避のため、今回は一部を盛った記事をお送りします

 

 私が通っていた小学校が限界集落に存在し、それ故に“普通”とはややかけ離れた小学校生活を送っていた旨はブログでしばしば言及したような気がする。していないならば、今したということで。

 残念ながら小学校卒業以来、私はこの『限界集落小学校あるある』を語り合えた同胞とは出会った事がない。誰にこの話をしても驚かれるばかりで、寂しい気持ちになる───のは嘘だ。イコール基本的に誰に話しても大ウケする話題なので、初対面の人間と誰も傷つかない世間話をする時のネタとして、私の中の第一候補によく上がる。今回はその話でもしよう。

 

 再三言う通り、私が限界集落に住んでいた頃通っていた小学校だ。限界集落とは具体的には、人口の大半が高齢者となっている集落のこと。即ち子供が少ない、特に小学校が極度に小規模となるのだ。

 何処とは言わないが、グーグルマップでピンを刺すならば真緑の山々のど真ん中にど突き刺さるような田舎であった。本当に集落そのものがあるのかと疑うほどに山々のど真ん中にど突き刺さる地点であった。周囲には田畑が広がり、清涼な川が流れ、高い山に囲まれ林が点在し、テレビはなくラジオもなく車もそれほど走っていない。そんな田舎だった。

 『一年生になったら』という有名な歌があろう。

  ♪ 一年生になったら 一年生になったら 友達百人できるかな

 微笑ましい。学校段階の上昇に合わせ、自分と人との新たな出会いに期待し、未来に希望を抱く曇りなき眼差しをたたえた幼児目線の童謡である。大人である今となっては皆思うだろう、「友達百人なんて出来ひんのやで」と。出来ても消えて減るんやでと

 その通り友達百人出来るわけがないのである。何故なら小学校に百人も人間がいなかったのだから。

 そう、全校生徒は百人いない。教職員を足しても百人いない。非常勤や地域ボランティアを足しても百人いない。式典の来賓や保護者諸君を足せばやっと百人超えたかもしれない。しかしそんな規模。友達百人など出来るわけがないのだ。入学早々前提破綻。こうして幼児から児童に成った子らは不条理さの煮凝りたる現実を知りゆくのである。

 

 そんな我が母校を語るのならばまず、通常の小学校にはなかったであろう様々なイベントなどの話が欠かせないだろう。先述の通り人が少なかったので、何もかもが全校ぐるみとなっていた。

 「全校ぐるみのイベントなんて普通じゃないの」? 全校遊びに加えて全校花見全校似顔絵大会全校川遊び全校海開き全校稲刈り全校落ち葉拾い全校焼き芋大会全校雪遊び全校餅つき大会の全てをご存知か? ご存知なら私と握手をしよう、さあ手を出してくれたまえ。

 全ての紹介はできないが、一部のお話はこの場でもできよう。

 まずうちはイベントなどではなく毎朝、全校生徒対象のルーティンの一つに、マラソンがあるタイプの小学校だった。朝の学活が終わり次第全校生徒がグラウンドに集まり、一斉スタートするものだ。一〜三年生は1km、四〜六年生は42.195kmと低学年高学年で距離が分かたれたため、長距離走が嫌いな私は四年生に上がる時に憂鬱とした気分になったものだ。

 田舎道ばかりとはいえ何故かこの朝マラソンの際はアスファルトの部分のみを走らされ、小学生ならばまあ皆よく転ぶものだった。アスファルトで転けると痛いよね。私もしこたま転んだもので、未だに両膝と両肘と両掌とこめかみに当時の傷跡が残っている。頭身が低く頭が相対的に重いために重心が不安定なのが、子供が転びやすい理由の一つである……と何処かで聞いたことがあるが、本当だろうか。

 

 あとは私が中学年〜高学年になった頃から新設されたルーティンとして全校草引きがあった。どこの草を引くかというと、グラウンドである。

 うちの小学校のグラウンドは死ぬほど水捌けがよく、生命が芽生えるための土壌として奇跡的とも言える好条件であったらしい。管理も何もしていないというのに、ほっとけば雑草がいくらでも生えてきた。恐らくは何処かから種などが飛んできて自生を始めていたのだろう、本来ならグラウンドの隅が緑色になる程度のことだろうが、その地域は近隣に竜巻でも発生したかと言えるほどに強風が吹き荒れていた影響か種は隅々まで飛散し、グラウンドを埋め尽くす雑草が日々我々児童達の足を絡め取っていたのだ。基本的に軍手持参、五、六年生にはクソデカい鎌を持つことが許可され、教員児童それに地域の駐在さん総出でそれら雑草の処理に追われたものだった。あまりの雑用っぷりにぶーたれる者も多かったが、色々な先生や年下どもとおしゃべりしながらの作業だったため、私は割と楽しんでいた方だ。

 なお雑草の生命力はゾンビの如く凄まじかったため、毎週火曜の昼休みに草引きは行われていた。雨が降って中止になった暁には……まあご想像にお任せします。

 

 あとは教師陣にも、人口の少ない田舎とあってか個性的な人々が散見されたものだ。素手で猪を仕留めるスクールバス運転手を始めとして、

 毎朝車で一時間かかる峠を脚で走って越えて出勤してくる先生やら。

 朝学活の際突然乱入してきて「これ今朝体育館の窓にぶつかって死んだトンビ」と児童に死骸を十体ほど見せびらかして立ち去った先生やら。

 終学活の際突然乱入してきて「これ俺の得意技」とベイブレードを五十個くらいぶん回して見せびらかして立ち去った先生やら。

 残念なことに上記に述べた先生方は、私の六年間において一度も担任は持ってくれたことはなかった。私の担任は、それほど目立たない、結構普通の人だったかな。

 ただ修学旅行に行った時、消灯前カードゲームに勤しむ教え子らの写真を撮りにきた彼女をまんまとデュエルに引き摺り込み、総出で負かして罰ゲームカード(私が持参)を引かせた時に披露してくれた、本物かと見まごうほどキレッキレのロボットダンスは印象的である。披露した担任が帰って行った後よく床を見てみるとそこにプラスネジが一本落ちていたので、案外そういうことかもしれない。実際翌日の担任はどこかポンコツになっていた。

 

 とはいえ楽しいことばかりの小学時代でもなかったのは確かだ。これまた何処かの記事で言及したと思うが、私は断続的に些細ないじめに遭っていた。

 まあいじめとはいえ深刻ではなく、学校中の女子児童が一斉に私を遊具下に呼び出し罵詈雑言を浴びせてきたり全校生徒が私に向かって「香ちゃんのことなんか嫌い」と大音声コーラスをしてくる程度だったので、今や然程気にしてはいない。それに相談すればすぐにちゃんと対応してくれるタイプの学校だったのが本当によかった。

「これ以上いじめが続くようならば、うちの子はブラジルの小学校へ転校させます」

 と母が啖呵切った時の校長の反応ときたら、それはそれは愉快極まりなかったらしい。おかげさまで私をいじめていた子供達は私の目の前で、校長と教頭と担任と生徒指導主任と近所の駐在さんからしこたま怒られ全員ナイアガラの如き滂沱の涙を流していたものだ。

 

 あとは……ああ思い出した。小学時代の私は何というか食事がド下手であった上、好き嫌い多かった上、所謂『たとえ鮫の骨であれお残し一切許しまへんで』タイプであったため、給食の時間は苦手な日の方が多かった。

 世の小学校は自分の教室で配膳して給食を食べるそうですね? うちの小学校は全校を一つの食堂的な空間に集めて一斉に食べていた。故に『お残し許しまへんで』に『食べ終わるまで食堂から出さへんで』が加わった結果、私のような子供は例え給食時間が過ぎようと昼休みに入ろうと五時間目が開始しようと食堂から出られない事態になった訳。とんだ『〇〇しないと出られない部屋』ではないか。

 年に二回ほど、今思い出してもサブイボが立つほどに嫌いな給食メニューが出る日があったが六年間のうち一回だけ、快晴の下での五時間目プール授業に参加したすぎて、たった一回だけ時間内に食べ終わることが出来たが、それ以外は結局下校できたのが翌朝の登校時間になることが多かったかな。

 

 限界集落の小学校にはデメリットが多いであろうが、ここでは別段言及する必要もあるまい。私が問わずとも、世の人々が散々田舎の悪しところを羅列しているのだし。

 あまり見かけない田舎学校のよきポイントは、卒業式がめちゃくちゃさっさと終わることだ。それは名前を呼ばれる卒業生の人数が少ないからであって、特に私が卒業した代は当時過去一の少人数学年だった。グッパーでのチーム分けが意味をなさない人数だった。名前を呼ばれるターンが恐ろしく短く済む───というか私が中学でマンモス校を卒業した時は卒業式があまりに長すぎて、冗談抜きで失神するかと思った。流石に卒園式はよく覚えていないが、結局小学校の卒業式など十五分で終わっていたものだったので。

 

 しかし小学校……の話なら。しかもそれが限界集落とあるならば。お気づきかもしれないが……もうこの私の母校は存在しない。数年前にさっさと廃校になっていた。

 元々あの小学校が作られた頃から、いつしか廃校になることは前提とされていたらしい。少子化は非情である……。だが廃校になった小学校が、廃墟になっていることはない。きちんと敷地が再利用され、更に地域を活性化させるための別施設が建ったのだという。

 果たしてどうなったのだろうかと、クソダサUIの元母校HPを漁ったり市の報告資料を読むなどして、私は先日ようやく、母校敷地の来世が𝘼𝙀𝙊𝙉 𝙈𝘼𝙇𝙇になっていたと判明したのだった。

 

 深夜テンションだったってことで。

 今/週/の/お/題「盛り」でした(?)。

 

 石澄香

 

【好きなもの】

 鶏の尻の下半分のフワァ…てしたところ

声褒められた話

【日記】

 死ぬの、怖すぎ。

 以下本編。

 

 己の声が苦手である。

 否、最近かなりマシになってきた方だ。それは特に声で以て丁寧に話す内容が展開と命運(?)を分けるゲームを友人らとプレイするにあたり、その記録を録音として残される機会が増えたため。

 しかしそれにしても自身の声は苦手である。カッコよくも可愛くもない。低いうえ喉が開ききっており喩えるならば、キモオタの必死な声色といった次第である。耳から聴くこと自体は最近できるようになったものの、自分の声を別媒体から他人事のように聴くのは未だ堪えるところがある。

 

 しかしながら。

 私は一度、お世辞抜きに己の声を褒められたことがある。“話し方”というより、“声”そのものをだ。別にそれが自信に繋がっているだとかそんなことは断じてないが、断じてないが、愉快なことに真剣に“声”そのものにのみピンポイントでフォーカスされて、予想だにしない人間から能動的に誉められたことがあった。

 

 それは中学の頃の話だ。転校先の中学で、クラス内に友人もほぼおらず、そもそも私自身が通い先の中学校自体が総合的に好きではなかった。故に私は大抵独りで行動していた。移動教室もその一つだ。多くの生徒はトモダチとつるみながら廊下を押し合いへし合いして横に並んで、通行のクソ邪魔をかましながら歩き、教室間の移動をする。そして私はそんな彼らを心底軽蔑しながら、独り早足で廊下を歩いていた典型的な陰キャであった。

 そのクソド陰キャの女に、“彼”は平然と話しかけてきた訳であった。

「石澄さん」

 振り返って見てみれば、いつの間にか私のすぐ真横について話しかけてきていたその人物は、とある私のクラスメイトであった。流石に八ヶ月以上の付き合いであるし、勿論記憶の中で顔と名前は一致していたが、私と彼は話したことがなかった。マジでなかった。なんと授業中での“グループになって〜”系の何某ですらご縁がなかった。また、勿論私から彼をマークしていたこともなく、ただ稀に視界の端に映るのみの有象無象クラスメイトのうちのひとつでしかなかった。

 彼が私に話しかけてきたのは廊下だ。体育館で、全学年で卒業式の練習だか何だかやってきた帰りの、渡り廊下を抜けた先の屋内の廊下。マンモス校だったので生徒でごった返していたが、その人混みをするする抜けて難なく彼は私に接近してきて、話しかけてきたのだった。

 ビビり散らしながら私が「何です…」と返事をすると、彼は続けてこう言った。

 

「突然すみません。あの……『はんけつの術』って言ってみてもらえません?

は???

 

 は? って言った。

 マジで言った。このブログ、割と私の返答や人からの問いかけには脚色をいれることが多いが、この「は?」はマジでそのまんま返した類のセリフだ。

 がやがや周りの喧しい中学生らは、無論我々を意にも介さずスルーして通り過ぎている。我々も足を止めず歩き続けている。私は「は?」の顔のまま歩いている。彼もまた「言ってみてもらえません?」の顔のまま私の横について歩いている。

 何を言い出したか皆目理解できない私に対し、再度彼は私の耳元に口を寄せ丁寧に手すらも添えて、

「『はんけつの術』です」

 とまた言った。

 いやちゃうねんその辺が聞き取れなかったから聞き返した訳ではない。そうやなくて。いや。何? 私は混乱した。

 しかし彼は何らかの罰ゲームを受けて私に話しかけているとかそんなベタな気配もなく、何より彼の顔が本当に真剣だった。あまりに真剣だったし、それに彼が口にした“お願い”もそのまま理解すれば全く実行には困難ではない、タイプの、筈の要求だったので。

「……はんけつの術」

 仕方なく注文どおりに私は指定された台詞を紡いだ。果たしてこれが彼にとって何の意味を持つのか。言い終えてから半ばドキドキしながら私は彼の返事を待った。

 彼は私の台詞を聞いて、ふむ…と顎に手をやった。

「───できればもう少しシリアスな感じで……」

 そんな追加注文あるか?????

 此処何処やと思う? 公立中の廊下やが? そもそも私はただのド陰キャクラスメイトやが? そんな追加注文あるか?????

「は……はんけつの術…………」

 しかし追加注文を求める台詞がこれまた更に真剣だったことに気圧され、私は気付けば要求通りに少し声を落としていた。声色を低めに、ゆっくりめに、重たげな感じをやや意識して、くらいしか応えられなかったが、いや『もう少しシリアスな感じ』などどうすればいいか正直分からなかったから。

 しかし私がそう読み上げてみせると、

「はぁぁ……素晴らしい……!」

 と彼はあからさまに目を見開いて笑顔を見せたのだった。ボンドルドか?

「有難うございます! 凄くいいです!

何なんだアンタ本当

 ぺこぺこと私に対してしきりとお辞儀をしながら何の説明もせずに彼は立ち去っていった。何でもいいが本当に本当に嬉しそうな顔をしていたから、『何なんだ』とは思ったが別段不快な思い出としては認識していない。

 寧ろこんな褒められ方をしたのは生まれて初めてであったし、ここまで極端なものはこれからもきっとないだろう。私の“声”に対して何の脈絡もなく唐突に真っ直ぐアクセスしてきて、唐突に台詞読み上げをさせ、ピンポイントで心底嬉しそうな顔をしてそれで彼と私の会話は終了したのだ。これら行動には世辞の類いが全く入る余地がなかったといえる。他者からのお褒めや何やらに疑り深くなってしまう私にとって数少ない、『アレはガチで純粋に褒めてくれてたんやな』と断言できる事象が、この事件なのである。

 

 私は覚えている。私はこんな中学生活だったが、卒業アルバムのフリースペースには面白がった人々によるコメントが何件か残されている。面白がっただけだな、と思うような人物からもあるが、その中にはその“彼”からのコメントも何故か存在するのだ。

 卒業式の日、私自らがとある美術の先生に、お世話になったからとコメントを貰いに行った時のことだ。彼自身美術部だったようで、顧問からのサインを貰った帰りらしきところで彼と私は出くわした。私に謎の台詞読み上げをねだった時から殆ど話さなかった彼はしかし、そこで私を見ると

「ああ石澄さん! よければ僕のにも書いてください。そして石澄さんのにもひとつ書かせてください」

 と知己の如く笑顔で宣ってきた。困惑しながらも私は了承した。私から彼へ何と書いたかは覚えていない。

 アルバムとしては空白だらけのあのフリースペースには、彼からのコメントとして今もこう残されている。たまに思い出して、ややニヤつく。

 

 『ありがとう。いいお声で』

 

  石澄香

 

【好きなもの】

 合鴨(生産性でも見るだけでも食でも)

雑な近況

【日記】

 一月中なら許されるのではと思っていたが、新年の挨拶を完全にし損ねた。

 なるべく毎日書こうと宣っていたところ月一も危うくなって参りました。まあ、概ねこんなもん。コヨーテコヨーテ。昨今ゲボ寒くて凄いですね。

 以下本編。

 

 本編と言いつつテーマもなしに徒然久しぶりになんか書いてみるだけである。

 一年前の己はたとえば何をしていたかと見返してみれば、一瞬微熱を出していた。愚かである。

一瞬の微熱、ヤバ恐怖 - 石は沈みて木の葉浮く

 昨年において閲覧数が多かったっぽいものは、紅茶味の酒を煽りながら書いた怨嗟と親愛の記事と恩師自慢のものだろうか。取り敢えず復学について怯え続けた末に復学後も暫くべそべそと後悔していたような気がする。ガイダンスを聞いただけで泣きだし、元同期に話しかけられただけで動悸を拗らせ、元同期らの卒論進捗を聞いただけで目を回して呼吸困難になっていたくらいだ。あまりに哀れな生き物と化していた。

 今でもたまに(寒さ・低気圧・疲労・飲酒等条件が重なるにつれ確率上昇)実家との付き合い方を考えていきなり泣き出したりするが、この程度ならよくある話で済むものだ。

 寒さ、低気圧、疲労、水分不足、糖分不足、睡眠不足、日没後、条件が重なるにつれ自身の思考の信頼性は目減りしていく。おーおー何か言うとるわ、くらいで済ませられれば万々歳の歳々万。

 

 大学院進学しようと思ったのは、それが許されたからに他ならない。

 ひと時退学すら望んだというのに、また退学までは行かずとも文転しようかとも画策していたというのに、はたまた復学しながらも卒研をなるべく回避してナメくさった卒業の仕方をして今後人生一切合切理学系には関わらないと決めたというのに、同学問分野に進学したいと吐かしているドアホが私である。一年前の自分の記事を見てみろ、驚き桃の木山椒の木どころではないのでは?

 楽しかったのでそのうち記事で書きたいが、学会に行ってきたのが些細な転機だったかもしれない。そもそも参加必須ではない学会(遠方も遠方)に行ったのは、話したことも殆どない院生の先輩が「石澄君は学会来るのかい」と声をかけてきて迷い出した末だから。学会を見に行って以来、興味ある分野の話を見るたび読むたびに

「卒業したらもうこの話題に関われなくなるのか?」

 と考え、その途端途方もなく寂しさを覚えたのだった。

 大学院進学の動機としてよく挙げられるのが『学び足りないから』が多いとされる。って教授らが言っていた。一年前のアノ私がクソボロに泣きながら呼吸困難起こしかけたガイダンスで言ってた。

(https://agatelastone.hatenablog.com/entry/2022/04/07/014603)あまりに哀れ

 いや私の場合は学び足りないというよりただエラい人々の話をなるべくお得に聞きたいだけなのだ。私の娯楽の一つは、頭が良すぎる人々の語り合いや議論を完全に門外漢として盗み聞きすることだから。

 学生はお得だ。学会だって学割だし。千円くらいかかる座談会にも助教の実績にタダ乗りしてタダ聴きさせてもろたり。アホヅラしてアホみたいな質疑を飛ばしても、これから学びますの体勢なら大体許される。断じて学会の、壇上側に立ちたいとカケラでも思ってしまったからではない。そんな怖いことは思うわけがない、「素人質問で恐縮ですが」をかまされたらマスクを喉に詰まらせて死ぬ自信がある。

 やろうと思えば卒業してから、社会人になってから再度進学するのだって可能である。実際そういう方はいくらでも見かける。しかしそれは可か不可かで見た場合前者であるという話であって、難易度は高いものだ。何が一番問題かというと、やる気がバチクソに削られることだ。

 勉強し直さねば、忘れてしまったところを見返さねば、学費を貯めねば、時間を空けねば、些細かもしれないそんなタスクが積み重なれば、怠惰で諦めがちな自分は何もかも妥協して二度と立とうとはしない。流石に分かってしまったからだ。まだ二十とちょっとしか生きていないというのに、二十を過ぎた頃から既に時間の流れる速度が速すぎると感じている。あと十年二十年もすれば、瞬きひとつしている間に知り合いが一人死んでいるような事態になるのではないだろうか。勿体ねえ、嗚呼勿体ねえとばかりに私は目先の拾えるものを拾っている。

 拾い損ねたものも多大にあり、それらを振り返ると後悔の念に苛まれるが、人生をあと百度繰り返したとしても私という魂はきっとあれら全てを取り落とす。そんな確信があるため、振り返るだけ無駄であると見て見ぬふりをするのが相応しい。できるかどうかは兎も角として、目を向けないのが相応しい。

 私という人間は何もかもが他者にも自己にも救い難いほどに心底碌でもないが、まだ誰も私を殺しに来たりはしない。好きなものを大事にしつつ執行猶予期間を適当に過ごしていけばよかろうて。

 

 しかし修士に行くのであればそりゃあ、研究テーマがいる。いや当たり前。というか普通は前後が逆だ、テーマを携え進学希望をするのだから。何をしよう。まず先行研究読まなきゃ何がやられてて何がやられてないか分からない。論文いつ読むの? 今d

 先日助教が話しかけてきた。

「石澄さん。そのうち修士の研究テーマを話し合いましょう」

「ヒィッ考えておきますまだ何も決まってないです恥入りますツラい」

何してもらおうかなぁ

与えられるタイプ⁉️」

「めちゃくちゃいっぱいあるよ。えへへどれやってもらおうかな」

「私より楽しそう……」

 きっと助教の頭の中には手を出したいテーマがいっぱいなのだろう。私はこの助教が大好きなので、それにあくせく貢献できるならと考えると心底光栄であるなと思うのみ。

 

  石澄香

 

【好きなもの】

 スラップベース

手遅れってヤツ

【日記】

 「酒を避けなさい」と言われた。

 かかりつけ(精神科)医のおじさんに。のでサケている。おサケを。家の中に1ダース安ワインがあることがそもそも問題だと思ったので、そちらを先に片付けて『アルコールを買わない』ということを己に課している。720mLは一晩で消えるので今月半ばには、我が家から酒類は消えるだろう(友人が置いてった炭酸入りの奴を除き)(アレは何があろうと口にはしない)(僕は炭酸が飲めないため)。

 以下本編。

 

 「全人類皆産まれた時から手遅れなんですよ

 

 という言葉に、救われたことがある。

 今もたまに思い出している。そして思い出す度、牛刀掲げて己が頭に刺そうとしていた私は、『せやんなぁ』と刃を下ろし、着席する。

 それに関して記述する。

 

 高校三年生の頃のある日であった。

 年度末付近だったか、全校単位で三者面談が開催される時期。私の属するクラスを三年連続担当する、我が担任は言った。

三者面談するけど、その前に皆んなと二者面談がしたい」

 他クラスと違ってて悪いけど、日程表配るから空いてるとこ教えて。と続けて担任はこう言った。

 ヤベー人だなと思った。教師とは尋常ではないレベルにド多忙だ。今でこそ私には『学校教論はブラックで多忙でやりがい搾取に等しい職業』という認識があるが、そこまでの認識もなかった高校生当時の私すら、その担任に対して「ヤベー担任だ……」と思った。受験期たる高校三年生の担任だぞ、しかも学校制度的に恐らくは“国公立への進学率”を託されている、恐らくは校内で最も責任重大な教師だぞ。

 私自身がその立場に立っていると仮定しよう、うーん、ピリピリしている保護者との三者面談というだけでどれだけストレスフルだろうか。だのにこの担任はその直前に、自ら───しかも“面談は一人二十分程度”という校内での常識をハナから破り、

「一人三十分見積もります」

 とスケジュールを組み、生徒に予定表を配っていたのだ。馬鹿なのかこの人と思った。一人あたり十分増えて、放課後に五人程度を相手すれば、通常の一時間弱は残業である。

 ヤバくない? あのね教師ってヤバいんですよ、ねぇ、これ読んでるそこの貴方。私は同時に恩師らが心配になります。教師がヤバい話は置いておいて(政治的な話をするなら絶対置いておいちゃいけないとは思っているが)、私の高三時のその担任はまぁ、初手そんなヤバい感じの教師だった。

 

 私は確か何処かの曜日の、十七時過ぎの、微妙な時間を希望として出した。所属する部活も活動がゆるゆる、予備校の講義もない曜日、一番『先生に負担をかけない生徒』である自覚があったためだ。

 私の生涯には“好きな先生”が沢山いる。総合的にも己が優秀さを無意識下で自負していた私は、愚かにも『私こそが私の好きな先生達にとって一番“迷惑ではない”生徒である』という傲慢たる自認を持っていたのだ。端的に言えば、模範的で理想的で兎角波風というものを立てない生徒が自分である、という風に思っていた訳だ。

 故に、一人当たり三十分面談時間をとる、と言っていた担任に対しても、

 『まぁ僕なら十分強で全てが終了するやろ』『今日は定時で帰れるぜ、よかったな担任』

 とすら思っていた。

 

 結果。一時間弱面談した。

 あなやどうしてこうなったのか。私が定刻に教室に訪れた時には確かに担任は、なんか、何故かベランダで黄昏ながら自身が顧問を務める運動部を遠目に見物していて。で、早めに教室に来た私に

「おお石澄さん、今日は早め早めに面談が進んでいて時間に余裕がありますよ」

 と微笑みと共に諸手を広げていた筈だ。

 私としても「おやァーそりゃ朗報っスねェ!」と軽口叩きながら席についた筈だ。

 しかし面談時間を気にする頃には既に一時間弱経っていた上、私はボロクソに泣いていた。嗚呼ツラいことがある、今は既にツラい筈はないのだが、しかし他人に話してみれば兎角何故かツラいことがある、などと訴えながら担任の前でケチョケチョになっていた。

 担任は「ほほお」とばかりに表情ひとつ変えていなかった。内心動揺してらした可能性も否めないが、目の前の当人に悟らせない時点でスゲェ人だ。

 思い返してみれば出会って数ヶ月の頃も、余裕カマしてた私が突然中の上くらいに重たい相談をふっかけてしまった時にも

「ああ。石澄さん、そろそろそんな相談してくる頃だろーなと思ってましたね」

 と平然と首肯していたのがその担任だった。ヤベ〜人間が俺の担任になったもんだなァーッと当時は心中で叫んだものだ。確かにヤベ〜人間だった。

 

「……家、飛び出しちゃおっか」

 咽ぶ私の話を最後まで黙って聞いて、担任は確かにそう言った。

「実家を出たいなら、私から地方の大学を次の三者面談で提案する事も出来ますし」 「偏差値がどうとか、私は関係ないと思うんです」

「大学がアレなら、ほら『担任に脅されたから』と言って後期日程に問答無用で願書出しちゃえばいいんですよ」

 担任、嗚呼担任。母親もといそれに触発された私がかつて傲岸不遜にも

「土曜の授業より予備校の講義を優先させたい」

 と打診した(無論私の口から担任の耳へ)際も、『学校としては非推奨』と建前を述べつつも

「無論体調不良も致し方なし。休む時は学校に連絡してね」

 と言外に『予備校優先も許可する』と仰った人だ。確か入学直後一ヶ月で私が咽び泣きながら人間関係の障害を(猛烈に不本意過ぎながら)訴えた時も、この担任は当時の私のぐちゃぐちゃで何の価値もない感情を確かに尊重してくれた。

 私は今までこの十七年間、どれだけのことから目を逸らして馬鹿を装っていたのだろう、と泣きながら言えば、担任はまた言った。


「石澄さんは馬鹿だったんじゃないんです。自我が芽生え始めただけです」

 

 教師の難しさの一つは、保護者の意思と生徒の意思を両方尊重し理解し存在を許すことだ。これが、どうしても私には出来ない。

 長々此処に記述した“我が担任”は、初めは教師になる気はなかったという。教員免許を持ってたが故に就職難を逃れたのだ、という。大学院で変な時間を過ごした、ただ就職機会を逃した、と。……その生徒であった私としては、『そんな都合のいい天職の見つかり方あるか???』と思うのだ。

 我が担任は、きっと教師になってよかった。

 でなければ少なくとも私は、此処にはいない。

 

 ───そして冒頭に戻るのだ。到底三十分も過ぎる筈がなかったその号泣面談で、私は去り際に担任にこう言った。

「こうも相談をしましたが、私はもう自身の何もかも“手遅れ”であるような気がしてなりません」

 と。

 すると担任は即答したのだった。

 

「何言ってんすか石澄さん。石澄さんくらいのヒトが“手遅れ”ならね、人類皆産まれた時から全員“手遅れ”じゃあないですか

 

 真顔でスルッと述べた担任のその言葉に、私は。

 ……た、確かにせやな……と思った。

 変えられねーところは変えられねーし、しかし僅かに変えられるところは変えられる。“変えられねー”ところはそれを“変えようとできるか”の己の性格気質にそもそも属しているものであるし、己が主体として“変えられなかった”のは“変えられない”ものだったのだ、と割り切る。自身が手遅れだと悲観するならば、周囲の全員も何らかの“手遅れ”を抱えている。ただその“手遅れ”が一致しないだけ。

 人間はその知性と社会性でもって、形質等大きく変質させずとも長らえてきた生物種。故にその社会的生物種に産まれたが故に果たさねばらならない責任も重く付き纏うが、しかし逆にその生物種として産まれたが故に受けられる恩恵も片っ端から捻り取ればええんじゃあないかと思っている。

 心の底から笑って死んだ者勝ちなのだ。

 

「水道で目元冷やしておいで」

 と担任は言った。ボロカス泣いていた私は、トイレの水道で目を冷やしてきた。戻ってきた私に担任は言った。

「お母様にその目を追求されたら、『担任に泣かされた』と言いなさい」「『国立大に行け!』とプレッシャーをかけられて、怖くて怖くて泣いたと言いなさい」

 生徒の模試成績管理用のiPadをちょもちょも弄りながらまた、担任は続けた。

 「貴女のお母様との面談を思い出すに、お母様は私のことを、“よい担任”としてかなり信頼してくれている」「私の言うことなら、あのお母様ならある程度は頷くでしょう」「今は石澄さんとお母様と、全面戦争するべき時ではないと考えます。それを避けるためならば、私という担任の存在をいいように利用してください

 自分を悪者にしていいよ、と担任は平然と言っていた。

 平然と生徒へこう言える教師が、この世に何人いるだろう。担任は兎角“信頼”を得るのが上手かった。台本もある訳がない三者面談で、こんなテクニックを使えるのは“ヤバい教師”以外にあり得ないだろう。

 

 石澄香

 

【好きなもの】

 ワンタン

絵of近況(ゼミ周り)

 

【日記】

 ジメジメ深々と凹んでいる最中に自業自得大迷惑クソデカおおやらかしをかましたために人生単位でテンションが低い。そろそろ死のうか(約三ヶ月前との差…)。

 以下本編。というか落書き。

 

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 直属の助教。教授陣も人間であると思い出させてくれた。

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 直属ではないがお世話になっているしよく話せる所長。可愛い。

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存外に楽しかった。これのせいで次の奴の三枚目の悩みに悩まされている。

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無事でした。身体は。

 

  石澄香

 

【好きなもの】

 きむち