石沈みて木の葉浮く

石は沈みて木の葉浮く

イラスト文章 つれづれ 学生

接触対象の生と癒され度合

【日記コーナー】

 年末年始の帰省から戻ってきたら自宅がガチ冷蔵庫の気温になっていた。水道管が凍結していなかっただけマシである。

 しかし温風が噴出するタイプの暖房がヘアドライヤーしかなかったため(それは暖房ではない)、甚く凍えながら風呂場でめちゃくちゃ熱湯を浴びた。冷えた体に熱湯をかけると心室細動で昇天することもあるから気をつけるんじゃぞい。

 以下本編。

 

 セロトニンというワード、この時期になるととてもよく聞く(当社比)。しかし色々その手の情報は錯綜する上、ソースも不明な場合も多いため、「そういえばセロトニンってどういう時に出るのだろうか」とこの機会に軽く調べてみた。

 全体的によく見る傾向が以外のようなもの。

 

 ─ 見栄えがよくて美味いものを咀嚼すること

 →あ〜……(食えればよい論で雑な食生活やってる奴)

 

 ─ 歩くこと

 →あ〜……(日平均歩数100歩前後だったりする奴)

 

 ─ 人との触れ合い(物理)をすること

 →ア〜〜〜……(触るは愚かヒトと顔を合わす機会もほぼ無しの奴〜⤴︎)

 

 特に三つ目は他と比べてやや盲点であったが、「そらせやろな……」と思った。人との触れ合い(物理)はグルーミングと呼ぶ場合もある模様。やはりニンゲンも所詮霊長類に属するホモ・サピエンスという生物の一種でしかない……ってコト⁉︎

 私はトリチャンが好きで、そこそこ頻繁に「コトリチヤンを飼いたーーーい!!!!!」と発作を起こしてその場に卒倒するのだが(大嘘)、これも要は毛の生えた恒温動物に接触したいということであろうと思われるので、恐らく接触対象はニンゲンでも可なのだ。因みにペット不可物件在住、かつ己の世話もできない貧弱なので何も飼えぬ

 

 しかしこれ、実際どういう基準なのだろう。例えば暖房に触ってもセロトニンは出ないし、例えば自発的に動くチョロQに触っても同様だろう。

 単に『温かくて動くもの』ではなく、『命あるものと接触することで幸せ物質が分泌される』というこの、ここの過程。人間は何をもってして接触の対象が生物か非生物か判断しているというのか。

 

 実家の柴犬に触ると幸せになる。これは当たり前。友人に徐に手を揉まれたり頭を撫でられたりするのも同様(そういう友人割といる)。どちらも相手が明確な一個体の生物であるからだ。

 ならば『生命活動をしている』のが条件か?

 どうだろう。少し前、数十分の正座を経て感覚神経を一時的に潰して、己の左足先を毛布で包んで一個の生命体と見立てた其れを自分で撫でてみたことがある(SANチェック1/1d3)。しかしこれでは生き物を撫でている感覚は得られず、些か虚しいばかりであった。私の左足先はちゃんと『生きている』というのに?

 それから私は部屋に置いているやや大きめの柴犬のぬいぐるみを抱えることがあるが、その際本物には劣るもののある程度脳から幸せ物質が出るのを感じることがある。ぬいぐるみは『生きていない』というのに。

 『生きている』ことが必須条件ではない場合、何がセロトニン分泌の条件なのか。接触する対象が暖かいことか?動くことか?

 うちの柴犬ぬいぐるみのもやし君は綿しか入っていないので、温かくないし動かない。但し手洗い洗濯で洗った際に湯を吸って重量が増し温くなったもやし君を抱えた際、いつもよりちょっともやし君が愛しく見えたのも確かである。

 なんだろうね。

 

 生物というものは“自己でない外界との明確な隔りがあること”、“代謝能力を持つこと”、“増殖能力を持つこと”と、三つの条件が生物学的には定義されているが、生き物を撫でたいと思った時にいちいちそれらの定義を意識することはない。

 しとる奴おったら怖い。

 

 結論: 文鳥さん飼いたい

  石澄香