一八君が葉っぱを見ていた。
直前まで同じ講義室で講義を受けていた、実習班が一緒の、とはいえ殆ど喋らず今日は偶然出席登録時に目があったので珍しく片手で会釈し合ったな……くらいの一八君が、講義棟横に生えている植物を見ていた。生物学生が実習に使い倒すくらい弊学は植生豊かな敷地であるため、あの手の植物はなんぼでもその辺に生えているもんである。そのうちの一本を彼はしげしげしげと眺めていた。いつも通りに学食行こかと通りすがった私はその背中を見かけて「何してんだアイツ」と思い、いや『アイツ』と背中を見ただけで個人識別できるようになったのか自分は……と若干の成長(?)を自覚した。
彼の専門は植物ではなく魚類であったと聞いていたので、あの植物観察は何なんだろうと思いつつ見なかったフリをして、私は食堂の方面へと向かう。まだ授業時間中であったため学生の往来が少ない構内を歩き、私は
「ああ話しかけりゃあよかった」
と。僅かに後悔をした。
◆◆◆
「友達作んなさい」
と言われたことはおありだろうか。おありかもしれない。しかしいい歳こいた大人になってから、医者に、現状に対する療法として「友達作れ」と言われたことはおありだろうか。おありかもしれない。おありでないかもしれない。私はおありである。先日の通院で三回目を言われた。
(これは二回目の時の漫画)
「つるんでる奴いるの? 大学に」
「いな……いr、いる!!!」
「誰」
「一度も会わない別学部の女の子一人とぶっちゃけ話すの気まずい元彼君」
「いないのね。」
「はい。」
ニンゲンと喋った方がいいことについての必要性はひしひし感じている。しかし自己否定感が著しく強い奴が、イチから人に話しかけるなどリスクが高過ぎるのである。元の同期達? 思い遣りのある何名かが話しかけてきてくれたが、クソ怖くて無理であった。もう本当に私自身の頭の悪さ加減(専攻に関連する知識と思考力の足りなさという意を此処では指す)が露呈するので、本当に話しかけないでほしい。例えば私は生態統計データにおける標準偏差がどういう何なのかとかクリスパーキャスナインがどういう機構でノックアウトに寄与するかとかを皆目説明できない。ストレス耐性も体力も、引きこもり時と比較すればマシになったが-100が-5ほどになったくらい。
これでも割と頑張っている方。頑張り過ぎたら死ぬ加減を大目に把握しつつそれでも上手いこと頑張りのやりくりをしている方である。
◆◆◆
で。
シャーレ引っくり返した。今日。実験中に。人工受精卵入った奴。実験台の上に。メダカの。その段階まで辿り着くのに結構な工程踏んだ奴。
雄と思って開いた内臓から卵巣が出てきたりプレパラートを卵ごと指の僅かな圧力で潰したりで、既に三〜四尾ほど哀れな生命を余分に潰したところであった。〆たあと動かなくなるのを待つ時間も惜しくビッチビチ跳ねる彼らの頭部をピンで貫き、手を抵抗の鱗まみれにする私が少し顔を上げると、透明なカップの中で泳ぐ残りの待機組が異様に寄り集まり大量と化した魚眼らと視線がかち合う。ある種ビビったが仕方がない、此方も必死。これ以上人生に些細な遅れをも取らぬべく必死なの、本当。午前眠過ぎて久々にちょっとだけとったカフェインが沁みたのか震える手先で人工受精さすのは至難なのよ。
そうやってやっとこ得た直径数ミリの卵入ったシャーレ引っくり返すなど、そんな阿呆なことやる人間いると思います?
私なんだなぁ。
言い訳じみてくるので何故どうやって引っくり返したかの状況や心理はわざわざ書かないが、やはり端的に言うと疲れていたのだと思う。最近総合的に情緒はおかしいし、“まだ”二年前ほどではないにしても大量の点描スケッチを課題で要求されかけていて怖過ぎるし。三ヶ月経とうとしているが、ちょっと疲れてきた感がある。
とはいえ疲れているのは私の都合であるし、引っくり返したシャーレも私個人が扱っていたもの、ぶちまけたリンガー液で同班メンバーの何かを損ねたわけではなかった。幸いである。しかし己のは全部やり直しである。さぁ今日二十時には帰れるだろうか。致し方ないとはいえ精神的に些か負荷が強い事象ではあるものの……
とシャーレを持ったまま二秒ほど真顔で直立していたところ、
「よし分かった一旦状況整理しようか」
とトイメンの一八君が同じく真顔で机をぐるり回ってきた。
「大丈夫です」
「一回シャーレ置きましょ」
「単純にやり直しするだけなので大丈夫」
「落ち着け」
めちゃくちゃ落ち着いているつもりだが側から見たら落ち着いてないように見えるんだな〜と、当時思いながらの私は今から考えたら笑えるほどにパニクっていた。他人の行動を阻害しないようにとだけ考え出し、早急に現状を打破して進行させることにだけ執心した。
「受精卵落としたんだよね? 拾えばまだいけるから机の上から探して回収しよう。ノッポ君(隣)も探せる?」
「いや無理やって絶対死んどるよこんな……」
「手についてたりしない?」
「人肌で死ぬやろ受精させたての受精卵やし……」
「大丈夫だメダカの卵はタフだから」
もう死んでいるものを探す時間があればやり直し作業にかかった方が総コストが少なくて済む、しかも受精させただけじゃなくて発生過程を観察する必要あるしリンガー液から落としたサンプルが正常発生するとは思えない、だから探さなくてよいと丁寧に説明した。説明している間、一八君もノッポ君も目が滑る私と違って卵を探していた。
「よし分かった。じゃあ最後にもっかいだけ探させて。いい?」
顔を上げ私を見て曰う一八君に、無駄だとも思いながら断る理由もないので首肯する。すると顔を上げていた一八君の代わりにずっとまだ探していたノッポ君が呟いた。
「あった」
「は??????」
「ノッポ君ナイスだ! 回収するぜ!」
私が呆然としている間にスポイトでノッポ君が机の水溜まり(リンガー液)に浮いていたミリサイズの卵(ほぼ透明)を回収し、一八君がシャーレに入れていた。
「っしゃ。じゃ、石澄さんはいっぺん水でも飲んできなよ」
「………………そッすね……」
今、些事であっても自分が何かを一人で頑固に判断してはダメだと長年の経験から悟る。実験室内で飲食をするのはアウトという常識があるため、廊下でちょっと水を飲んだ。戻ると二人が少し水溜まりの後処理を始めていたため、流石に代わる。
「水飲んで落ち着いた?」
「……申し訳ありませんでした…………」
「申し訳ないことだってねぇ、俺は思いませんよ。ノッポ君、俺と去年組んでてこんなんばっかだったよね?」
「そっすね」
成る程。では『申し訳なかった』と例えあと一万回ほど思ったとしても口に出すのは、この場合は逆に失礼だ。
いやしかしもう凄い勢いで自分が矮小になっていくのを感じた。これだから同期と絡むのが怖いのだ、自己完結した方が遥かに被害や気負いが小さく済むから。日本語が非常に通じづらかった二年前の同期にしこたま迷惑をかけたことを思い出す。今の班員は日本語も通じれば意図も通じれば、趣味範囲の話も比較的合う。にも関わらずこれだから、やはり元同期らに責任転嫁しているだけで二年前から私がただアンポンタンだっただけでは。
「つまりアレですよ、カップ焼きそばの湯を捨てる時に逆から捨てちゃったようなウッカリ心理でしょ?」
いや絶対カップ焼きそばの規模とちゃうやろ。
あと焼きそばはシンクにぶちまけたとしても自分が若干空腹を感じるだけで済むやろ。生命のゼロorイチも単位も関わってへんやろ。あとウッカリによるデメリットがデカいねんこの後正常発生の過程を観察するのが実験主題やのに死んだやろあの卵
「あ石澄さん。この卵めちゃくちゃ正常発生してるよ」
「ウッッッッッソ」
ガチで正常発生していた。プレパラートでまたしても潰しかけた上に人肌の表面を介してやや汚れた実験台に落とし数分剥き身で放置したんだが、一体どうなっているんだ。生まれて初めて私は生命の尊さというものを感じたかもしれない。
ということを独り言でこぼすと、隣の台でやっていた隣の班の者たちが振り向いた。
「そんなエライことなってたの!!?!?」
「いや気付かへんかったんかい!!!!!!」
「隣で静かに大事故が進行していただなんて……」
よく考えたら私もパニックが一周回って静かになっていたし、私の代わりに卵の救出をした二名も少なくとも表向きは全く騒がず冷静だったので、本当に気付かれなかったらしい。顔と名前が一致しないどころか、名前もマジでまだ知らないような同期が何名かやってきてはうちの班の卵発生の正常さを賞賛し、たまに私の大事故を聞いても引かず嘲らず手ェ叩いて大ウケして「お疲れ様です」と言ってくる。存外に、私は“異物”ではないらしい。
勿論担当教官も気付く訳がなかった。後ほど(事故った件は伏せて)一応正常発生しているかどうかの確認を願ったところ、
「死んでるようにしか見えませんがね」
と断言した三十秒後に
「16細胞期に進行しています」
と断言し直してくれた。断言は一回にしてください。
石澄香
【好きなもの】
胡麻ドレ