「ありがとぅッ!!」
……という声を今さっき、なんの脈絡もなくいきなり思い出した。勿論それは他者から私に対し向けられていたもので、声の主はおじさんで、大したことではなく物凄く些細なことで、不意に言われたことのある言葉だ。一回ぽっきりではなく、少なくとも数回は言われた何の特別感もないはずの普通の言葉であるが。まるで木製バットを横にフルスイングしてモノを吹っ飛ばした時のような勢いの軽快なその「ありがとぅッ!!」の声の雰囲気を、本当に唐突にたった今思い出した。
小学時代はスクールバスに乗って通学していたのだが、その運転手達は本職を別個で持っている地域のおじさん方が担当していた(例えば本職酒屋おじさん)(ホワイトデーに酒粕のお返しを貰った)(それは父の甘酒になった)。大抵毎年入れ替わる。
そして私はそのスクールバスに『一番長く乗っている』児童だった。年数の話ではなく、小学校からダントツで遠い場所に住んでいたから、という点でだ。バスに乗る時間は他の子供と比較して、最低十分くらいの長さはバスに揺られていた。
つまりはその間、私には話し相手がいなかった。いや待てその頃の私はまだボッチの陰キャではなかったはずだが何故かスクバの中ではややハブられていた気がする。今となっては閉鎖的なド田舎なりの理由を察することはできるが とにかく朝と夕方の二回、私はバスの中で一人だったのだ。運転手のおじちゃんを除き。
最初に気さくに話しかけてきたおじちゃんは小三の頃の担当だった。とはいえ小三と小四小五の間では担当が変わったので私にとっての運転手おじさんは『二人以上』存在することになるが、変わった先の新たなるおじちゃんも同じくらい気さくであった。たまに風邪を拗らせるなどして代理の知らんおじちゃんが出張って来ても、基本的には気さくな人柄だった(代理おじさん開口一番「いつもの担当はなぁ!風邪引いて死んだ!ガハハ」)。
朝、イチバンにバスに乗った直後の私には、日課があった。私は自分の席にランドセルを放って運転席の真隣までてこてこと移動し、寝っ転がる。エンジンの真上だったのかそこはやや温かく、広めで平たい空間はうつ伏せになって運転席の人間と喋るのに最適だった(ベルトはない。多分クソ危険だった)(Don't 真似 for 幼子)。そして次に乗せる子が住む家の前に着くまで、私はおじちゃんと二人きりで世間話を喋り倒すのだ。そんなことをこの私がしているとは誰も知らない。おじちゃんは一回だけ頭を撫でてくれたことがあった。それは相当嬉しかったことだ、忘れたことがない。
で。冒頭の「ありがとぅッ」だが。
「香ちゃんちょっと、そこのファイル取ってくれへんかな」
と、とある夕方におじちゃんに頼まれた時のことだ。非常に些細だ。頼まれた私は「これ〜?」と時刻表のファイルを抜いて、片手で運転するおじちゃんに渡した。その時に「ありがとぅッ!!」と言われたのだ。何故こんなことを覚えているのか、そして思い出したのか、分からない。頭を撫でられた時ほどではないだろうが、存外に嬉しかったのかもしれない。かもしれないなと思うので、忘れにくくするために書いている。これを。
そういえばこのおじちゃんと、そして近所のお喋りバーサンの二人が運転席と乗車口で稀に繰り広げる会話がめちゃくちゃ面白かったのをついでに思い出した。二人の会話は長過ぎて児童の帰宅が遅れていたので当時は楽しくなかったが。
「最近○ュレックの新しいタイトルの映画出たじゃろ?」
とある日バーサンがおじちゃんに振った。私は観ていない映画だった。
「おお、あれか。なんやったかいな、『フォーエバー』ってヤツやろ」
「それやさ。あの『フォーエバー』って何やの。英語?」
「知らん。難しい英語は分からん」
「フォーエバーって何や」
「フォーエバーなんて知らん」
(フォーエバー知らんことあるか……!?) と黙って側から聞く私は内心汗をかいていた。
「アレちゃうんか。挨拶とちゃうか」
(全然違うが……!!?) と息を潜める私は思わず心の中で突っ込んだ。
「ほぉせやったかいな。ほないつの挨拶や」
「『さようなら』やないのんか?」
「なるほどな、何やそんな気がしてきたわ。ほな、フォーエバー。」
「フォーエバー。」(ピー (ドアが閉まる音
(ある種の順応力……ッ!!?!?)と私が密かにドン引きする目の前でバスのドアは閉まった。おじちゃんとバーサンは真顔で手を振り合っているばかりであった。
誰も訂正しなかった。
石澄香
【Today's 好きなもの】
醤油が多い卵かけご飯